ニュースリリース

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2013年11月11日

第35回 サントリー学芸賞 選評


<政治・経済部門>

砂原 庸介(すなはら ようすけ)(大阪大学大学院法学研究科准教授)
 『大阪 ―― 大都市は国家を超えるか』(中央公論新社)

 現在、世界で勢いのあるのはルクセンブルク、シンガポール、香港など、小さな国々である。ルクセンブルクは人口48万人、2,500平方キロ、一人当たりGDP8万ドル、シンガポールは540万人、700平方キロ、5万ドル、香港は700万人、1,100平方キロ、4万ドルである。
 日本では、東京の特別区部が900万人、600平方キロ、横浜市は367万人、400平方キロ、これに対し大阪市の人口は日本第三位の268万人だが、面積は政令指定都市でもっとも小さい220平方キロである。きめ細かい行政をするには大きすぎるが、世界と競争するには小さすぎるのである。
 戦前、大阪市長として活躍した関一は(市長在任:1923〜35)、人口の増加を始めとする都市問題の解決を、近隣の市町村を合併して面積を拡大し、都心部と近郊の住宅地域とを一体として発展させることによって解決しようとした。御堂筋の拡幅や地下鉄建設を中心とする交通網の整備は、その中心的な手法だった。その結果、大阪市は、関東大震災の打撃を受けていた東京を抜いて、人口日本一の大都市となっていった。
 しかし、大阪市の地理的拡大はそれ以上広がらず、都市化に伴う諸問題を抱え込むことになった。大阪市における事業から発生する税金のかなりの部分は国と大阪府のものとなる一方で、郊外に住み、大阪市で働く大阪府民の市町村住民税は、それぞれの市町村のものとなった。いわば大阪市は搾取されていたのである。
 それを可能としたのは「自民党システム」だった。戦後日本では、農村部に過剰な議席が与えられ、そこに安定した地盤を持つ自民党政治家が当選を重ね、国政をリードする構造が成立した。これに対し都市部は、相対的に少ない数の政治家しか選び出すことができず、また、有権者の流動性が高いこともあって、都市部の政治家は当選を重ねることが困難だったため、都市の発言権は二重の意味で小さく押さえられたのである。
 高度成長期の日本では、国土の均衡ある発展が唱えられたが、それは都市を突出させないということであった。これに対する反発として、革新自治体が生まれ、民主党、公明党、共産党などが大都市部で力を伸ばしたが、国政をリードすることはなかった。
 しかし、やがてグローバル化の中で、都市のダイナミズムを中心とする発展が不可欠な時代がやってきた。そこでは、空港、港湾、大都市交通網の整備が不可欠であるが、大阪にはそれらを実現する基盤が著しく欠けていた。
 こうした歴史的な分析の中に、著者は、橋下徹の大阪維新の会の急速な台頭を位置づけ、同時にその足らざるところをも指摘している。
 著者はすでに『地方政府の民主主義 ― 財政資源の制約と地方政府の政策選択』(2011年、有斐閣)において、直接公選される知事と、これとは別に選出される地方議会の関係について分析し、経済成長が鈍化する1990年代から両者の間の緊張が高まり、多くの改革派知事が登場する理由を明らかにしている。本書は新書であるが、やはり学問的に堅固な基礎を持つ著作で、明快かつ斬新である。大阪や大都市に関心を持つ人のみならず、日本の政治、経済、国土のあり方を考えるために、多くの人に読んでほしい著作である。

北岡 伸一(政策研究大学院大学教授)評

(なかしま たくま)(龍谷大学法学部准教授)
 『沖縄返還と日米安保体制』(有斐閣)

 投げてよし、打ってよし、走ってよし、の三拍子そろった現代外交史を専門とする新星の登場である。資料と事実の発掘、論理と潮流の解析、人物と時代の描写のいずれも確かな手応えを感じさせる。切り込んだテーマも戦後外交史の本丸そのものの「沖縄返還と日米安保体制」である。その課題は「佐藤政権が沖縄の施政権返還を実現する過程を、返還を可能とした安全保障上の条件に着目しながら考察し、沖縄返還交渉を通じて定まった返還後の日米安保体制の内容と特徴を明らかにすること」である。
 結論を言えば、沖縄返還によって、日本は米国の同盟国として東アジアの安全保障問題に初めて関与し、米政府と責任を共有することになった。沖縄返還は、戦後の日本の地域安全保障政策をはからずも誕生させたのである。本書は、そこに至る過程とその相互連関を細密画を描くように緻密に叙述、分析している。
 返還交渉における佐藤栄作首相のリーダーシップはよく知られている。キッシンジャーと若泉敬の秘密チャンネルの内実もいまではほぼ明らかにされている。そもそも沖縄返還交渉に関しては、すでに多くの優れた研究がある。米政府の交渉過程の記録に加えて、2009年の民主党政権発足後の日本政府の機密外交記録の公開もあって、資料の裾野は広がっている。本書の強みは、これらの資料を十二分に活用した上で、存命中の当時の交渉当事者にインタビューし、彼らの肉声を掬い上げていることである。
 なかでも、千葉一夫、枝村純郎、吉野文六、栗山尚一、佐藤行雄らの中堅外交官たちの証言が精彩を放っている。彼らの存在そのものも生き生きと活写されていて、資料面の堅固な骨格に豊かな肉付けを与えている。全体として構成も文体も筋肉質に仕上がっている。また、こうした中堅外交官と下田武三や東郷文彦らその上の世代の「核抜き・本土並み」をめぐる見解の相違と葛藤も興味深い。ここには、占領後の新たな日米関係と対アジア関係、さらには日本の「戦後の形」の希求といった戦後外交のみずみずしい理念の模索の姿がある。
 「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって「戦後」が終わっていないことをよく承知しております」佐藤首相のあの有名な演説の「戦後」とは何だったのだろうか。
 沖縄返還によっても「戦後」は終わらなかった。逆に、沖縄は日本の「戦後」により深く組み込まれた。平和憲法と日米安保と沖縄の米軍基地(抑止力)の存在によって、日本の「戦後」は構築され、定着したのである。しかし、戦後50年の1995年に起こった米兵による少女レイプ事件がそれを穿つことになった。
 著者も随所で触れているところではあるが、読み進むうちに、もっともっと知りたいテーマが次々と頭に浮かんできた。
 ・ 沖縄返還交渉をめぐる自衛隊配備と米軍基地再編・縮小
 ・ 米中接近と沖縄返還の関係
 ・ 尖閣諸島問題と沖縄返還
 沖縄返還交渉研究のフロンティアの広さに気づかされたことも含めて、この本はまことに豊穣な沃野であった。

船橋 洋一(日本再建イニシアティブ理事長)評

<芸術・文学部門>

阿部 公彦(あべ まさひこ)(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)
 『文学を〈凝視する〉』(岩波書店)

 阿部公彦氏の『文学を〈凝視する〉』は、「凝視」という観点から、現代の詩、小説、絵画など様々なジャンルを渉猟し、人はどうして凝視することがかくも好きなのかという疑問に始まって、じっと目を凝らしながら人はいったい「それ以上」「それ以外」の何をしているのか、そしてそのように作品に向き合う人間にとって、そもそも文学・芸術作品が「わかる」とはどういうことか、といった問いかけに至る、長編評論である。
 このように説明しただけでもすぐに浮かび上がってくる本書の際だった特徴は、第一に、難解な批評用語を振り回さず、普通の読者に「わかる」言葉によって問題を立てながら、自らもまた対象を読者とともに凝視しながら論を進めているという点であろう。著者はもともと英米詩の研究者であり、ケンブリッジ大学で博士号を取得した英文学の俊才である。深い専門的知識と批評理論の素養は当然本書全体の支えになっているが、それはいわば風味のよい出しのように全体に溶け込んで、表にでしゃばることがない。
 第二に、各章ごとに自由闊達に作家や作品を変え、軽やかなフットワークで凝視という主題を変奏していること。対象を凝視しながらも、特定の作家や作品にとどまって深くその世界にはまり込んで身動きがとれなくなることを注意深く避け、軽やかなフットワークで動き続ける爽やかな知の運動がここには見られる。古井由吉の言う「深みを表層に表す」という批評精神の実践と呼ぶべきものだろう。
 第三に、それにもかかわらず、散漫な総花的な論考には決して陥らず、全体として重い主題に向き合った正々堂々たる文学論の手応えがあること。阿部氏が 扱っているのは、結局のところ、人間にとって「見る」「読む」といった行為が何を意味するのか、その行為が露呈させる「亀裂」とは何なのか、そして小説や詩が読みにくくなった現代にあってもなおかつ文学が意味を持つとしたらなぜなのか、といった根源的な問いである。これは「技術的」な業績でしのぎをけずる現代の多くの若手研究者の中にあって、稀に見る美点であろう。
 本書は具体的には、茨木のり子の一見平易に見える詩から説き起こし、萩原朔太郎、ワーズワス、西脇順三郎などに至る詩人たちの作品の読み方を示す一方で、美術の分野にも積極的に足を踏み入れ、ハンス・ホルバインのだまし絵に秘められた謎の解読を枕にして、ホジキン、ロスコ、モランディといった20世紀の画家たちの絵を見るためにはどうすべきなのかを論じている。そして小説家・批評家としては、古井由吉、太宰治、小林秀雄、柄谷行人、志賀直哉、夏目漱石、大江健三郎、松本清張などを取り上げ、それぞれの作家の文体に関して繊細な観察を行うとともに、彼らの凝視の作法を鋭く分析していく。
 凝視というモチーフによってややアクロバティックに繋がれていると思える側面がないわけではないのだが、簡単には結びつかないように見える詩人・画家・小説家たちが阿部氏の学識と才気と洞察力のおかげで、見事な意匠を織りなしていくことには感嘆するしかない。批評の業と研究者の力の両面を鮮やかに発揮した、サントリー学芸賞に相応しい著作である。

沼野 充義(東京大学教授)評

岡田 万里子(おかだ まりこ)(ミシガン大学日本研究センター客員研究員)
 『京舞井上流の誕生』(思文閣出版)

 洋の東西を問わず舞踊研究は難しい。舞台芸術一般に言えることだろうが、それにしても演劇には脚本があり、音楽には(少なくとも近世以降は)楽譜がある。舞踊にはそういったものが存在しない。映像記録のない時代へと遡る舞踊史の研究となるとほとんどお手上げである。結局は、芸談や見聞録に頼るしかない。その芸談や見聞録にしても多くは功成り名遂げたものへの聞き書きであり、老年の回顧談である。主観的であることは免れない。足がかりにするには一抹の不安が残る。学問になりにくい。
 岡田万里子の『京舞井上流の誕生』は、そういう困難を乗り越えようと試みた画期的な一冊である。簡単に言えば、さまざまな古記録を博捜して、芸談や回顧談の裏を取ってまわったのである。そして、上方舞あるいは地唄舞の筆頭と言うべき京舞・井上流のイメージを180度変えてしまった。たとえば谷崎潤一郎の言う、上方舞は「どこまでも、金屏風と燭台とに囲まれたお座敷の芸術」という常識を、あえて言えば根底から揺すぶってみせたのである。むろん谷崎は自身の印象を的確に語っているのであり、その印象はいまもたとえば国立劇場で毎年開催される「舞の会」などにも十分に通用するものなのだが、それはしかし「新しい伝統」に基づく常識にすぎない可能性が大いにあるということなのだ。
 具体例を二つ挙げる。
 第一、井上流は初世・井上八千代が近衛家に奉公したことによって「御所風の非常に上品な立居振舞や白拍子舞」を体得したとされる「常識」を、近衛家24代当主・の夫人・円台院宮董子の『円台院殿御日記』を読み込むことによって覆したこと。少なくとも、江戸時代末期の堂上公卿の生活を子細に点検することによって、それが従来のイメージとは大きく異なることを示した。「舞楽や能楽の上演もあったが、それ以上に、浄瑠璃や曲馬(舞踊を含む)といった巷間の芸能が摂家の奥向きをも魅了していた」というのである。御所でさえ都の風俗と無縁ではなかった。
 第二、残された番組(公演プログラム)そのほかを子細に点検することによって、「花街の舞踊は、茶屋の座敷の奥にしめやかに秘められた静的な舞踊だけではなく、大きな舞台での上演に適した舞踊をも含んでいた」ことを明らかにしたこと。井上流は、今日で言う舞台公演とほとんど同じことを「舞稽古さらへ」の名のもとに行っていたというのである。また、西鶴の『好色二代男』に描かれた「祇園町の十替り踊」すなわち盆踊りに代わって、江戸後期には「ねりもの」と称される仮装行列を行なうなど、京の芸妓は群舞と決して無縁ではなかった。「都をどり」は3世・井上八千代の手になるが、その素地はすでに京の花街に存在していたというのだ。
 主題は明確、文章は平易。とはいえ、体裁はあくまでも専門的な学術書である。一般人にも広く読まれうる本というサントリー学芸賞の原則にはやや反するようだが、舞踊研究、舞台芸術研究の今後に与えるだろう刺激を思えばそれでもなお授賞に価すると信ずる。

三浦 雅士(評論家)評

<社会・風俗部門>

青木 深(あおき しん)(一橋大学学生支援センター特任講師)
 『めぐりあうものたちの群像 ―― 戦後日本の米軍基地と音楽1945-1958』(大月書店)

 いま忘れがちだが、戦後の日本は、独立国家ではなく、1952年4月の講和条約発効まで長く、実質的にアメリカの占領下にあった。日本各地に米軍基地があり、そこには何十万人という米兵が駐在していた。いわゆる進駐軍である。
 従来の占領下の研究は政治や経済、軍事に焦点が当てられていたのに対し、本書は、文化、とりわけ音楽に着目している。音楽を通してみた日米交流史になっている。
 日本に来た米兵たちは余暇に音楽を楽しんだ。著者は、彼らが余暇に、どんな音楽を、どこで、どのように楽しんでいたかを綿密に取材してゆく。「戦う兵隊」より「遊ぶ兵隊」の研究になっているのが面白い。
 故郷を離れて東洋の異国にやってきた米兵たちは、そこに故郷の音楽、とりわけジャズを持ちこんだ。1930年代のアメリカはビッグ・バンドの時代であり、その影響を受けた米兵たちは、日本でもジャズに慰めを得ようとした。基地で、将校クラブで、あるいは接収したホテルで、町に誕生したクラブで、彼らは音楽を楽しんだ。
 十年という長い年月をかけた著者は、いまや高齢となった当時の米兵たちを探し出し、訪ね歩き、話を聞く。アメリカの小さな町にも足を運ぶ。一種のフィールドワークから生まれた大変な労作である。
 登場するのは無名の米兵たちが多い。彼らは英雄でもなければ偉人でもない。兵隊というより音楽の好きな若者たちである。音楽を聞くだけではなく、自らもバンドを組んで演奏をする。軍事基地とその周辺は、同時に音楽が鳴り響く文化基地でもあったことが分かる。
 著者は元米兵たちを取材してゆくうちに、彼らどうしのつながりを見つけてゆく。山口昌男の『「挫折」の昭和史』などで学んだ、人と人との思いがけないつながりから文化が生まれてゆくのを知る。チェーン・ストーリーの面白さに満ちている。
 もうひとつ、本書の大きな成果は、米軍基地や将校クラブで演奏していた日本人のミュージシャンについても詳しく調べていることだろう。江利チエミや雪村いづみ、ウィリー沖山やエセル中田ら懐かしい名前が次々に登場する。彼らは、若い頃に、米軍基地とその周辺で歌を歌っただけではなく、本場の音楽を全身で吸収した。当時は、まだこの言葉はなかったが、彼らこそ「サブカルチャー」の大先輩といえる。
 進駐軍文化というと否定的に語られることが多いが、日本の若いミュージシャンたちは積極的にアメリカの音楽に影響を受けていったことが分かる。音楽が国境を越えている。
 考えてみれば不思議なことである。ついこのあいだまで敵国として戦ってきた国の音楽を、戦争が終わるやたちまち受け入れてしまう。戦前の日本にすでにアメリカ文化はあったとはいえ、まだ焼跡闇市の時代に、進駐軍を通して、アメリカの音楽が日本に急速に入ってきたとは。
 戦後、まさに占領下に子供時代を送り、アメリカ映画というもうひとつの進駐軍文化に夢中になった世代としては、進駐軍文化とは何だったのかを考えさせる好著である。

川本 三郎(評論家)評

中西 竜也(なかにし たつや)(京都大学白眉センター特定助教)
 『中華と対話するイスラーム ―― 17-19世紀中国ムスリムの思想的営為』(京都大学学術出版会)

 選者の一人が、本書は200年あるいはそれ以上確実に残る本だと評した。これ以上の評はないだろう。
 中国でのイスラム教のあり方を分析した文明論の秀逸な労作だ。一見、きわめて専門的かつ細密な事実分析をしながらも、常に大きな視野からの文明論的な問題意識を根底に据えているのが素晴らしい。
 著者の問題意識はいくつかある。ひとつは、アラビア語やペルシャ語のイスラム原典の漢語への翻訳により、その内容がいかに変容したか、翻訳を原典と中国伝統思想と比べながら分析すること。例えば、アラビア語のルーフ(霊)が、朱子学の「性」「理」に訳されることで、元の具体的観念が朱子学的な普遍的観念に改変されていると指摘する。
 次に、中国イスラム教は教理面で中国伝統思想との対立をいかに回避したか、という問題も重要だ。これは政権による弾圧を避ける死活問題でもある。関連して笑話的な夫婦喧嘩論も紹介されている。イスラム法では夫が妻に「出て行け」と離縁を口走るだけで離縁が成立し、その後結婚生活を続けると姦通罪になる。しかし中国では、明確な不貞のない妻は簡単には離縁できない。離縁は妻の一族の恥だからだ。この矛盾に対してムスリム学者の(1794−1874)は、夫婦喧嘩をしても夫は軽々に離縁を口走るな、黙って殴れ、と提案している。
 さらに、中国内地(江南、雲南)のムスリムが儒教との調和に腐心したのに対して、西北部では道教と結びついたという。この問題はほとんど未研究だが、著者は西北部ではスーフィズムが強かったことをその背景として挙げている。イスラムのスーフィズムが神秘的直観を重視することは知られている。この点は、理性的な儒教よりもまさに道教に近い。この立場で書かれた楊保元(1780−1873)の『綱常』は、道教的な色彩が濃厚だという。当時、西北部では、ムスリムと漢族の対立が激化した。したがって、西北部では、イスラムが道教を取り込むことで、イスラムと非イスラムの境を超えようとしたのではないかと分析する。
 中国のイスラム思想家にとって、伝統思想との調和だけでなく、儒教思想などに如何に埋没しないかも重要課題だ。したがって内地や沿岸部では、一方では儒教との同一性を唱えながら、他方では、埋没しないための差異化にも腐心したという。その点、北西部でイスラムが道教を大胆に取り込んだのは、辺境ゆえか、内地ほど中国文明に埋没する危険性がなかったからだろうと考察している。
 著者は、中国のムスリムは、現代中国にとっても貴重な財産だと高く評価する。それは、中国の国際的な経済、政治活動で、イスラム圏諸国との交流がますます重要となっているからだ。この面で、彼らが実際に活躍し、大きな役割をはたしている実例も紹介している。
 中国におけるイスラムの問題は、新疆ウイグル問題など、扱い方によっては尖鋭な政治問題となる。調和的な面を強調して、負の遺産の深刻な問題を避けている、との批判もあるかもしれない。しかし、このようなアカデミックな歴史研究に、現代の尖鋭な政治問題を必ずしも絡める必要はないだろう。この観点からすれば、現代中国にとっての財産云々といった問題も省略してもよかったのかもしれない。
 何れにせよ、久々に出たスケールの大きい労作であり、今後の研究の展開を注目したい。

袴田 茂樹(新潟県立大学教授)評

<思想・歴史部門>

工藤 晶人(くどう あきひと)(学習院女子大学国際文化交流学部准教授)
 『地中海帝国の片影 ―― フランス領アルジェリアの19世紀』(東京大学出版会)

 現代フランス史においてアルジェリア戦争が残した傷痕は、われわれ日本人が感じる以上に大きい。もしド・ゴールが現れなかったらアルジェリア戦争をきっかけにフランス社会は完全に分断され、1970年代の高度成長はなかったかもしれないのだ。ところが、そのように歴史の重大な転換点であったにもかかわらず、アルジェリア戦争を理解しようとすると大きな困難に遭遇することとなる。なぜあれほどまでに泥沼化し、過激なテロ合戦にまで発展したのかその根本原因がいまひとつ明確にならないからだ。
 本書を読むかぎり、その根本原因のひとつは近世のアルジェリア史にある。オスマン帝国の辺境だったアルジェリアには1830年にフランスに征服される以前から地中海都市を中心とした統治的枠組みが存在し、私掠、商業、外交という交渉回路を通じてヨーロッパとつながれていたという事実があるからだ。
 しかし、植民地化後は逆にその統一性が統合・同化を遅らせることになる。第二帝政期に、ムスリム原住民は宗教的帰属にもとづく属人法規にしたがいフランス民法の適用を受けない臣民とされたのがきっかけで、第三共和制期に、「ムスリム」という宗教的帰属がエスニックな範疇へと変容していったことで、ムスリム住民の市民権獲得への道は閉ざされることになったからだ。
 問題はもう一つあった。それは、アルジェリア植民者にはスペイン人やイタリア人などの非フランス系集団が多く含まれていたことである。アルジェリアがフランスの一つの県という扱いを受けるようになると、出生地主義による1889年の国籍法が必要となり、ヨーロッパ系住民も「フランス人」に統合されるが、しかし、そのために、こうしたフランス国籍を持つ「ヨーロッパ系市民」と臣民である「ムスリム原住民」という二極化が生じ、二つの集団がともに「アルジェリア人」を名乗って対峙する構造ができあがっていくのだ。この対立構造が20世紀にアルジェリア戦争として噴出することになるのだが、著者はそちらの方面に筆を進めることなく、フランス人東洋学者によるムスリム法研究と土地問題を第二章として取り上げ、そうした対立構造は思っているほど単純なものではないことを明らかにしてゆく。というのも、帝国主義的な枠組みの中で破壊と収奪を合法化する法学者の試みがあった傍らには矛盾や欠陥を指摘し、異文化理解の困難さを認識していた実務家たちの内部批判も見られたからである。
 著者はさらに、これらの法運用の面でも二元論や二分法では割り切れない複雑な現象が生じ、それが土地問題に反映されていたことを指摘する。「第三共和制期のアルジェリアは、ついに均質な空間となること」はなく、「逆説的なことに、空間の構造は、『同化』が標榜された植民地圏の中核において、もっとも入り組んでいたのである」。
 抜き差しならぬ対立を生んだアルジェリア戦争の背景を、一筋縄ではいかないその複雑な要素を含めて見事に分析した最良の研究書として強く推薦したい。

鹿島 茂(明治大学教授)評

将基面 貴巳(しょうぎめん たかし)(ニュージーランド・オタゴ大学人文学部准教授)
 『ヨーロッパ政治思想の誕生』(名古屋大学出版会)

 西欧中世の政治思想を論ずるこれまでの多くの著述では、13世紀におけるアリストテレス『政治学』の「再発見」を「革命」ととらえ、アリストテレス哲学とキリスト教神学との統合を試みたトマス・アクィナスによって時代の思想を代表させてきた。将基面貴巳氏の著書は、この「トマス中心史観」の大幅な書き直しを試みるものである。
 ただし、それはもう一つの史観を提示することではない。古代ギリシャ・ローマ思想とキリスト教という二つの伝統を前にして、様々な思想家がどのように思考したかを具体的に読み解くことによって、西欧中世が「政治」に関する「学」を生み出していく道筋を立体的に辿っていく作業である。
 その作業のため、将基面氏は三つの座標軸を据える。一つは、政治共同体論の系譜である。キリスト教神学にとっての政治共同体とは、原罪を負った人間が神の命令によって作った「必要悪」である。それに対し、人間は自然本性的に政治的動物であると宣言したアリストテレス思想は、「善き生」を求める人間の自律した活動領域として政治共同体を理解する。この二つの相矛盾する立場の相克こそが、中世において政治共同体に関する豊かな成果をもたらしたというのである。
 第二の軸は、ローマ法に触発された教会法学である。とくに重要なのは、その伝統の中で「権力」に関する言説が生み出されたことである。それは、世俗の共同体だけでなく教会をも射程に入れ、しかも清貧論争や聖俗両権対立などの現実の政治闘争に応答する中で展開されていったという。
 そして、第三の軸は、政治に関する学の形成にたずさわった思想家の学問的背景の多様さである。ダンテやマルシリウスのように法学者でも神学者でもない人物も参加する、開かれた「知識人」の世界が生み出されていたことが指摘される。
 将基面氏は、三つの座標軸を交差させながら、一元的な理論的枠組みに回収されず、多元的な観点が緊張関係を保ちつつ発展していくという点こそヨーロッパ的な政治思想の「原像」であることを、説得的に描いている。しかも、読者はその複線的な叙述を辿っていく中で、すべての基底に流れる大きな伝統の存在にも気づかされることになる。それは、古代ローマのキケロ以来の、言語コミュニケーションへの信頼である。人間は言語を通して真理を知り、言語を介して真理を他人と共有する。言語コミュニケーションの信頼は、人間による「同意」の役割を政治思想の中心に位置させる役割をはたすことになる。いうまでもなく、それは近代以降のヨーロッパ政治思想に連なっていくはずの伝統に他ならない。
 今ヨーロッパ連合(EU)は存亡の危機にある。その基本的政治理念は、まさに多元的な価値観や統治体制の間の緊張関係を通して一定の均衡を保つことである。その理念が、ユーロという単一通貨が解き放ったすべての違いを一元化する資本主義の力によって、大きく揺り動かされている。かつてケインズは「現在だけを知っているのと、過去だけ知っているのと、どちらが人間を保守的にするだろうか」と問いかけた。近い将来、この多元性の中に均衡を求めるという理念の原像を中世に見いだした将基面氏が、現代ヨーロッパの混迷、さらにはグローバル化された世界の混沌に対して、新たな視座を提供してくれることを切に望んでいる。

岩井 克人(国際基督教大学客員教授)評



以上

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