ニュースリリース

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2011年11月10日

第33回 サントリー学芸賞 選評


<政治・経済部門>

井上   正也(いのうえ   まさや)(香川大学法学部准教授)
『日中国交正常化の政治史』(名古屋大学出版会)

戦後日本外交の研究は、かつてはアメリカの資料を中心として行われることが多かった。利用できる資料はもっぱらアメリカの資料だったので、やむをえなかった。そうした研究から浮かびあがるのは、受動的な日本外交という像であることが多かった。
しかし戦後日本の外交文書の公開が進むとともに、日本がアメリカに翻弄されていただけではなく、相当に主体的な動きをしていたことが明らかになってきた。2001年の情報公開法によって、外交文書の公開はさらに飛躍的に進んだ。本書は、この情報公開法をフルに利用し、多くの関係者とのインタビューを行い、戦後外交史の最大の問題の一つである日中国交正常化に取り組んだ大作である。
日中国交正常化については、まず、民間の日中友好論者の役割を強調する「友好史観」と言うべきものがあった。他方で、国交正常化は国際政治の構造変化によって可能となったことを重視する議論が登場した。さらに、日本の文書の検討の中から、陳肇斌『戦後日本の中国政策』のように、日本は台湾との関係を維持しつつ中国との関係の正常化をめざし、相当の戦略性を持って行動したとする研究も現われた。
本書は、陳の問題関心を引き継ぎながら、そうした戦略性がなぜ失われていったかを、膨大な資料を丹念に分析して、中国専門家を含む多くの官僚や政治家の多様な意見をカバーしながら、日華平和条約から日中国交正常化に至る20年間について、包括的な検討を加えている。
そして、著者自身が序論で述べているとおり、「日本政府が、様々な代替可能性を模索しつつも、構造的制約と内在的限界に直面して、選択肢が徐々に狭隘化していく政治過程」が明らかにされる。700ページの随所に新しい解釈や発見があり、まことに興味深い充実した作品である。とくに佐藤政策の中国観や国連政策については、教えられることが多い。
ただ、評者は二つの疑問を持った。まず、それでは日本に、いつ、どのような選択肢があったのかということである。日本が日米安保を堅持し、アメリカがベトナム戦争を続け、蒋介石が妥協を拒み、中国が強い立場を崩さなかったとき、日本が取り得る選択肢は他にあったのだろうか。
もう一つの疑問は、資料が豊富になるにつれ、過剰解釈の危険が生じるということである。たとえば佐藤栄作が、いつ、なぜ、ある決定をしたのかということは、究極的には分からないことも多い。私は二年ほど前、いわゆる「安保と密約」に関する調査に携わったが、なぜ佐藤がこのような決定をしたか、よく分からない、と感じることが何度もあった。政治家の決定は、合理的には説明しきれないことがある。よく将来を見通して決断していたのか、あるいは目前の利益を重視して行き当たりばったりの決定をしていたのか、容易に区別はつかないことがある。アメリカでは、フランクリン・ルーズヴェルトにも同じことを感じることがある。
以上は、本書の価値を貶めるものではまったくない。むしろ大いに知的関心を刺激されての所感に過ぎない。著者の次の作品が本当に楽しみである。

北岡   伸一(東京大学教授)評

古川   隆久(ふるかわ   たかひさ)(日本大学文理学部教授)
『昭和天皇   ――   「理性の君主」の孤独』(中央公論新社)

戦前の昭和より、平成の方が「動揺」「沈滞」といった否定的イメージが強い。
これは、2009年春、朝日新聞が行った世論調査の結果である。
デフレが20年も続く「失われた時代」の果てに、平成という時代のイメージが茶色っぽく沈殿している。まさに、昭和は遠くなりにけり、ではある。
それにしても、戦前、戦後を棒の如く貫く昭和とはどういう時代だったのか。その問いに答えるには、昭和天皇の真実をつかみ出す以外ない。それに肉薄することで、20世紀の日本の「失われた機会」にも迫ることができる。
昭和天皇は、1901年に生まれ、1989年に満87歳で亡くなった。天皇は、20世紀という時代を丸ごと生き抜いた。そして、どの世紀よりも先鋭な技術革新と過酷な世界権力政治と熾烈なイデオロギー闘争に満ちたこの世紀の落とし子でもあった。
あまりにもうぶな落とし子だったのかもしれない。ダーウィンの進化論を信じ、吉野作造の論文を掲載する『中央公論』を愛読した天皇は、政党政治と協調外交を国是とする民主的な立憲君主制を理想とした。
しかし、そうした天皇の、そして日本の夢は、1930年代以降、ことごとく挫折する。天皇は、日中戦争に対しては既成事実を黙認し、太平洋戦争にあっては開戦を決断した。それによって天皇は生涯、戦争責任を問われることになる。
著者は、このような天皇の理想の醸成とその挫折の軌跡を綿密に追いつつ、君主としてそれを実現しようとする際に直面した国家の意思決定の欠如と非条理、つまりは統治危機(ガバナンス・クライシス)の本質をえぐり出している。
満州事変、日中戦争、日独伊三国同盟などでは、天皇は優柔不断であり、不甲斐なかった。その一方で、田中義一首相への叱責(張作霖事件)、ロンドン海軍軍縮条約成立への尽力、二・二六事件時の対応、防共協定強化問題、対米開戦までの過程、終戦時の「聖断」などでは、粘り腰で当たり、それなりの成果を生んだ、と評価する。
本書を読みながら、天皇が軍部を相手にみすみす“不戦敗”を余儀なくされる局面で、なぜ、天皇はもっと粘らないのか、といったもどかしさを感じるのは私だけではないだろう。この「天皇の孤独」の場面を描くとき、著者の筆致がややもすればリフレーン調になるのがいささか物足りない。
ただ、この本は、理想を求める昭和天皇の「孤独の戦い」の“戦記”として読むべきものなのである。
天皇の、ある戦いはなぜ、戦い得て、別の戦いはなぜ、戦い得なかったのか。どの戦いが、惨敗だったのか。
昭和天皇の究極の挫折は、旧憲法に裏切られ(天皇の絶対性、狭義の国体論)、そして国民にも裏切られた(国民の排外主義)ことだ、と著者は喝破する。
この指摘はまことに重い。
天皇がその都度格闘した、体制的負荷と官僚組織利害と独善的な民族主義という硬直的な政治力学を、平成の「失われた時代」を経た私たちは、かなりの程度想像することができる。
この力学を感得するより確かな想像力とリアリズムを、本書は読者に与えるであろう。

船橋   洋一(慶應義塾大学特別招聘教授)評

<芸術・文学部門>

大和田   俊之(おおわだ   としゆき)(慶應義塾大学法学部准教授)
『アメリカ音楽史   ――   ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(講談社)

本書の第9章の末尾で、著者は1983年3月25日に初披露されたマイケル・ジャクソンのムーンウォークに触れる。
それは「月面散歩」というフューチャリズムと、19世紀半ばに流行した顔を黒塗りにした白人の芸人によるミンストレル・ショウにまでさかのぼるすり足のコンビネーションであり、顔を白くしたマイケルが、人種的他者を<偽装>しながら擬似的な「宇宙空間」で黒人のステレオタイプを演じたものにほかならない。
ここに見られる偽装願望が創造力の中心部に位置しているのが、アメリカのポピュラー音楽の特色だと筆者は言う。本書の最大のポイントで、ムーンウォークはその一例だが、加えてそれが宇宙を指向していたのには、もうひとつの歴史があると指摘する。
アメリカがソ連と宇宙開発競争を展開した時期に、アフリカ系アメリカ人の音楽家はその歴史を独自の手法で表現に取り入れた。50年代から70年代にかけて「宇宙」をモチーフにした黒人音楽のグループやアルバムが多く見られ、中にはアヴァンギャルド・ジャズのサン・ラのように、古代エジプトのファラオの衣装をまといつつ、「宇宙」や「未来」をテーマにしたアーチストもいた。80年代以降もこの流れは途絶えず、やがてSF的な想像力を駆使する黒人作家の宇宙/未来/テクノロジー表象を「アフロ・フューチャリズム」と呼ぶようになった。その特色は「過去」と「未来」を同居させる点にあり、黒人にとって「未来」は「過去」に刻まれている。「過去」を何度も書き換えることで「未来」が訪れるが、この「差異をともなう反復」という特性はブルースからジャズ、ファンク、ヒップホップにいたる黒人音楽の系譜に流れている。それが「惑星的他者」の偽装として現れたのがマイケルのムーンウォークなのだ ―― ということになる。
魅力的で説得力のある記述だが、著者は一方で本書のアメリカ音楽史が、書き換えられる可能性にも言及している。白人と黒人の音楽的融合、あるいは両者の人種的混淆の歴史に沿ってアメリカのポピュラー音楽のそれを分析する場合、決定的に欠落するものがあると言う。存在感を増しつつあるヒスパニックがそれ。では、どうすればいいか。
注目されるのはアメリカ文学や文化研究の領域に起こりつつある大きな変化、すなわち「アメリカ合衆国/カナダ研究」と「ラテンアメリカ研究」に分かれていた境界を取り払い、「南北アメリカ大陸」をひとつの地政学的なフレームワークとして機能させようという試みである。アメリカ文化史におけるヒスパニックやラテンアメリカの重要性を強調するのは、「白」と「黒」の相互交渉の運動に「茶」という第三項を導入することになり、ここにこれまでとはまったく別の南北アメリカ大陸音楽史を浮上させる……。
選書という制約があるにもかかわらず、本書は実に豊富で刺激的な視点に満ちている。同時に著者の次なる仕事を期待させずにおかない。受賞を心からお祝いする。

大笹   吉雄(演劇評論家)評

輪島   裕介(わじま   ゆうすけ)(大阪大学大学院文学研究科准教授)
『創られた「日本の心」神話   ――   「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社)

まだ30代の音楽研究の俊英による、初めての単行本著作である。
新書版であるうえ、平易な「です・ます」調で書かれているため、軽い本かと一瞬錯覚させかねないが、さにあらず。本書の内容は東京大学に提出された博士論文を踏まえたものであって、文献・資料の調査から緻密な論考にいたるまでアカデミックな手続きを経ており、著者の才筆のおかげですらすら読めるとはいえ、膨大な情報が盛り込まれているだけでなく、論点には傾聴すべき鋭く独創的なものが多い。
本書の功績の第一は、日本近代の「演歌」(時に「艶歌」とも書かれてきた)の歴史に明確な見取り図を与えたことである。著者の整理によれば、「演歌」という言葉はもともと「演説の歌」の意味で明治時代に起源を持つ大衆芸能だったが、昭和初期に一度衰退してしまう。それが昭和40年代に別な文脈で復興して確立していったのであって、これは比較的新しい現象なのである。輪島氏は音楽産業の構造転換といった社会的側面にも注意を払いながら、その時期に「時代遅れ」とみなされるようになった古いタイプのレコード歌謡が「演歌」と呼ばれるようになった経緯を描き出す。
功績の第二は、演歌をはるかな過去から脈々と受け継がれるべき「日本人の心」「真正な日本文化」と見なす昨今の風潮に疑義を唱え、そう単純には言えないということを示した点にある。輪島氏は日本の流行歌の歩みは本来雑種的、異種混淆的であって、その一部をなしている演歌にもまた単純には定義できないくらい様々な要素が流れ込んできていることを明らかにする一方で、そもそも演歌もまた、イギリスの歴史学者ホブズボウムの言う「創られた伝統」であると考えるのだが、この主張には十分な説得力がある。
第三の功績は ―― そしてこれが本書の核心となるのだが ―― 演歌が伝統として創られていく際に生じたメディアや言説の編制の過程を、これ以上はできないというくらい鮮やかに描き出したことである。昭和30年代まで、レコード歌謡は進歩的な知識人によって「低俗」「退廃的」として軽蔑される傾向にあったが、その後、カウンター・カルチャー志向の文化人たちによって価値判断が反転され、演歌として大衆音楽の中核に位置づけられた。演歌が「日本の心」として公認されるのは、さらにその後のことだった。輪島氏は演歌の位置づけに生じたこの二重の転換を、当時の様々な言説を博捜し腑分けすることを通じて説明する。そこから導き出されたのは、いつ、誰が、どのようにして「演歌」を概念化していったのかをめぐる思想と心性のドラマである。
みごとに受賞の栄冠を射止めただけのことはあって、叙述のエネルギーと才気は、普段「演歌」にあまり興味を持たない読者まで引き込む力を持っている。本書は高度に専門的な研究と調査に支えられながら、狭い意味での専門の枠を超えてアピールする魅力を持ち、大衆文化史、近代日本精神史などの様々な隣接領域と響きあう可能性を秘めていると言えるだろう。その意味で、「演歌」という一見狭いトピックを扱っているようで、射程は極めて大きい。豊かな将来性を持った書き手の誕生を喜びたい。

沼野   充義(東京大学教授)評

<社会・風俗部門>

小川   さやか(おがわ   さやか)(国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員)
『都市を生きぬくための狡知   ――   タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社)

マチンガ、ウジャンジャ、マリ・カウリ。何やら不思議な言葉が頻出する。はじめは腰が引けるのだが、読み進むうちにまたたくまに引き込まれる。アフリカの厳しい現実を描き出しているのに、にぎやかな祭りの場にいるような錯覚にとらわれる。
研究書だが、巷の熱気にあふれ、ノンフィクションを読んでいるような面白さがある。書斎や研究室から元気良くアフリカの町に飛び出していった若い学者の生きのいい行動力には感服する。
小川さんは、タンザニアのムワンザ市という都市(アフリカ最大の湖、ビクトリア湖の南東岸)に行き、町の経済を底辺で支える路上の商人たちを調査する。
マチンガとはその路上で商売をする零細商人のこと。ウジャンジャとは彼らが品物を売るために駆使する手練手管、知恵のこと。マリ・カウリとはマチンガのあいだで行なわれている商習慣である、口約束による取引のこと。いずれもスワヒリ語という。
調査と書いたが、小川さんは高いところからマチンガの実態を観察するわけではない。自分もまた一人のマチンガとなって彼らのなかに深く入り込む。対象となるマチンガは古着を売り歩く商人だが、小川さん自身もその仲間入りをする。
炎天下を、また雨のなかを両手に数十枚もの古着を抱えて売り歩く。五ヶ月を過ぎる頃には500人以上の常連客を持つようになる。何百人ものマチンガと親しくなり、客を巧みに騙す術も教えられる。
学者のフィールドワークではあるが、同時にジャーナリストのルポルタージュにもなっている。臨場感にあふれている。小柄な小川さんは彼らから見ると少女にしか思えない。それで可愛がられたのだろう。マチンガになって路上で商売をする。どこか『放浪記』の林芙美子の活力を思わせる。
マチンガはきちんとした店を持たない。屋台すらない。路上に古着を並べたり、自分で古着を持って売り歩く。わが「男はつらいよ」の渥美清演じるテキヤの寅さんのよう。
正規の商人ではないからしばしば警察の取締りの対象になる。それを巧みにかわす。「逃散、猫かぶり」「即興的な連携、素晴らしい演技力、変装、変幻自在な話術」。彼らはいわばトリックスターでもある。
マチンガにとって商売とは客との駆け引きであり、ときに騙し合いでもある。そこでウジャンジャという知恵が必要になる。金のない人間が都市の底辺で生きのびてゆくためにはウジャンジャしか武器はない。そしてそれはストリートで体験しながら覚えてゆくしかない。その意味でも「都市の路上は闘争のアリーナだ」という言葉が面白い。
アフリカの諸都市には戦いながら生きているこうしたマチンガが数多くいて、それが経済を支えているという。目を開かせてくれる。
日本から来た小さな女性がマチンガになる。小川さんは当然、町の超有名人になり、「調査地に空気のように溶け込む透明人間」という古典的な人類学の鉄則を捨てざるを得なかったという。愉快。楽しんで書いている喜びが伝わる。

川本   三郎(評論家)評

<思想・歴史部門>

隠岐   さや香(おき   さやか)(広島大学大学院総合科学研究科准教授)
『科学アカデミーと「有用な科学」   ――   フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』(名古屋大学出版会)

ヨーロッパの18世紀は「アカデミーの世紀」とよばれ、科学研究の中心は、今日のような大学ではなく、科学者の団体であるアカデミーであった。だが、当時はまだ社会の中における科学者の地位は自明ではなかった。本書が描くのは、18世紀フランスのパリ王立科学アカデミーを舞台として、科学者たちが自らの存在をいかに社会に認知させるかを試行錯誤していく足跡である。この歴史過程において鍵を握るのが、本書の題名にもある「有用な科学」という言葉である。
たとえば初代の終身書記となり18世紀前半の科学アカデミーを主導したフォントネルは、数学と自然学が、実用的な技術への応用可能性だけでなく、精神的・哲学的と表現されうる高い次元の有用性を持つことを示し続ける。それは、17世紀からの「科学の共和国」という理念を維持しつつ、国王の庇護下にある「技能団体」という枠組みを通して社会との関わり方を追求していく試みであった。
18世紀後半に入ると、科学アカデミーは啓蒙主義者に征服され、その中で生活世界に根ざす有用性を求めるビュフォン的科学観と、純粋理論研究の長期的な応用可能性を重視するダランベール的科学観とが対立する。だが、この対立を乗り越えようとしたのが、最後の終身書記となったコンドルセである。彼は、マージナルな数学であった確率論が、自然現象のみならず社会現象をも記述できる科学言語となりうるという構想をもつ。それによって、科学の「有用性」が純粋な理論研究とともに、人間社会の統治に関する研究やその応用としての行政の合理化にまで及びうると考えたのである。事実、1780年代に入ると、科学アカデミーに「エコノミー」という分野が突然登場することを、隠岐氏は指摘する。そして、その名の下に政治経済的な主題を扱い始め、さらに病院設計や人口推計や運河調査などにも積極的に関わるようになる。国王が庇護する「技能団体」から、国王、さらには社会に対して「勧告する機関」への一歩を踏み出したのである。
確かに、フランス革命の混乱の中で、科学アカデミーは廃止され、コンドルセは獄死してしまう。だが、隠岐氏は、専門職業という近代的な科学のあり方は、まさに18世紀における科学アカデミーの「有用な科学」をめぐるこのような経験の上に築き上げられたものであったと結論するのである。
本書はまずなによりも、一次資料を駆使した一級の科学史研究である。だが、本書を注釈だらけの分厚い博士論文以上の作品にしたのは、隠岐氏が、「有用性」と「エコノミー」という二つの言葉に関して、今ではほとんど失われてしまった古典的な意味を歴史の中に甦らせたことにあるだろう。「有用性(utilité)」とは、古代のラテン世界では、技術への応用や経済的な利益という現代的な意味とは異なり、「公共善」を追求するという高度に精神的な価値を指していたこと。そして、日本語で「経済」と訳される「エコノミー(economie)」の古代ギリシャ時代の語源は「オイコノミア」、すなわちオイコス(家共同体)のノモス(統治術)であり、それは社会をいかに統治するかに関する科学という意味をもっていたことである。
私たちは、この二つの言葉の古典的な意味に導かれて、科学が社会の中に自らの位置を築いていく道のりを臨場感を持ってたどることができた。科学史の分野にこのような力のある研究者が登場したことを喜びたい。だが、とりわけ公共善としての「有用性」という言葉が、現代における科学と社会との間の複雑な関係にどういう視座を提供してくれるかは、本書からはまだ十分には見えてこない。科学に対する信用が大きく揺らいでいる今、若い著者のさらなる研究を待ちたい。

岩井   克人(国際基督教大学客員教授)評

伊達   聖伸(だて   きよのぶ)(上智大学外国語学部准教授)
『ライシテ、道徳、宗教学   ――   もうひとつの19世紀フランス宗教史』(勁草書房)

イスラム・スカーフ事件以来、フランスが国是の一つとしてライシテ(脱宗教性)を掲げている事実は遍く知られるに至った。しかし、このライシテの原則というものがどのような歴史的背景から生まれ、後の社会にどんな影響を及ぼしたかという点に関しては意外に知られていない。
伊達聖伸氏の『ライシテ、道徳、宗教学   ――   もうひとつの19世紀フランス宗教史』は日本人にとっていまひとつピンとこないこのライシテの問題について浩瀚な資料を渉猟して書き上げられた意欲作。
著者の問題設定は次のようなものである。フランスがライシテ原則の共和国体制をつくりあげたとき、宗教を科学的に研究する宗教学はその先兵となって新しい時代のライシテの宗教を創り出そうと試みたが、19世紀後半以後、宗教研究はそのような態度を放棄した。それはなぜか?また、いかにして、このような変化が起こったのか?
この問題設定に対し、著者は、それは、ライシテの道徳そのものがある種の宗教性を帯びるようになったからではないかという仮説を用意し、ユゴー、ミシュレのロマン派世代から始まって、コント、ルナンの宗教学に移り、ジュール・フェリーやビュイソンなどの政治家の思想へと至って、最後に道徳と宗教の問題を徹底的に考えたデュルケムとベルクソンを再検討に付する。
この系譜の中で著者が高く評価するのが、歴史を神学的段階、形而上学的段階、実証的段階と三つに分けたコントである。コントによれば、実証的精神は、長いあいだ神学的・形而上学的精神のなかで育まれ、そこから抜け出てきたものであるゆえに、宗教的精神と無縁のものであるどころか、むしろ宗教的精神を完成する最終形態だということになる、という。
これはいわば、時間軸に適用された弁証法のようなもので、コント的宗教史は、神学的・形而上学的精神の状態を記述するだけでなく、実証的精神の時代をも包み込んでいることになる。
ここからコントは新たな社会にも宗教が必要だとして「人類教」という宗教の確立を主張するようになるのだが、この考え方を批判的に継承したのがデュルケムである。デュルケムはジュール・フェリーらのライシテの道徳の不充分性を突き、ライシテの道徳もまた「宗教的オーラ」を持つべきだとした。必要なのは、長いあいだ道徳の機能を助けてきた宗教的なものの中に合理性を発見し、道徳的なものと宗教的なものを統合しようとする努力である。
著者はまた、デュルケムは「研究対象(ライシテの道徳)と研究の枠組み(宗教社会学)の双方に『宗教的なもの』を知覚していた」と指摘しているが、これは著者の時間的弁証法の地歩に最も近いものだろう。
たしかに、ライシテの道徳の宗教性こそは、エゴイストだらけになって、道徳を引き受けるまともな人間がいなくなった21世紀の先進国がひとしなみに直面している問題であり、一見すると、我が国とは無縁のように見えるにもかかわらず、日本人にとってライシテの宗教性は決して他人事ではないのである。
哲学と歴史の双方に重大な問題提起を行った真の意味での力作である。

鹿島   茂(明治大学教授)評



以上

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