最近『谷根千(やねせん)』に人気が出ている。「谷根千」というのは、東京都台東区、文京区にまたがる下町のこと。谷中、根津、千駄木それぞれの地名の頭文字を取って「谷根千」と呼ばれているのだ。この辺りは関東大震災でも焼け残り、第2次世界大戦でも比較的戦災が少なかったためか、昔の面影を今に伝える建物が、あちらこちらに残されている。そういった昔の建物を探索しているだけでも楽しいのだが、実は「谷根千」の楽しさはそれだけではない。
「谷根千」は、文豪の町とも言われている。それは本郷に東京大学ができてから、隣接する雑木林だった千駄木の辺りが次々と開発され、数多くの文人が移り住んできたからだ。夏目漱石を筆頭に、森鴎外、高村光太郎、幸田露伴、北原白秋などなど。現代では、「夕鶴」で有名な木下順二も昨秋亡くなるまで住んでいたという。それらの住居のほとんどは現存しないが、団子坂に鴎外記念館が、日本医科大学同窓会館前に漱石の猫の家※1跡碑などとして残されている。この碑のそばには、作品にちなんで猫の像があるのだが、見つけられるだろうか。(森鴎外に関しては、上野にゆかりの旅館があり、そこに旧居が残っている)。
※1 漱石の猫の家
夏目漱石がロンドン留学から帰国後4年弱住んだ家。ここで処女作「吾輩は猫である」を書いた。また「倫敦塔」「坊ちゃん」「草枕」などもここで著した。漱石より13年前、森鴎外も1年間住み文学活動をしていたという。家自体は、近代文学における重要な建築物として、現在は愛知県・明治村に移築されている。
ところで、「谷根千」は、文豪たちが愛し、住んだだけではなく、実は文学作品にも登場しているのだ。例えば、江戸川乱歩。彼の作品には、名探偵・明智小五郎が登場する。この明智小五郎が初めて世に出たのが「D坂の殺人事件」である。この舞台となったD坂というのが、「谷根千」にある団子坂のことなのだ。団子坂は、千駄木駅から西に向かう上り坂で、谷中の辺りが古き良き下町のイメージを色濃く残すのに対し、千駄木から西、団子坂辺りは、かなり、現代風にリメイクされているといっていいだろう。そんな現代のビルの間に、変化の波に取り残された古い商家が、小説当時の面影を今に伝える。また、「谷根千」の道にぽっかりと口を開いた小さな露地に一歩足を踏み込めば、大正から昭和初期の木造の家が今も現役だ。軒先に広げられた洗濯物や、バケツに入った砂遊びのスコップ、小さな自転車、ボールなどが人々の生活の匂いを漂わせる。
小説では物語はほとんどが団子坂で進行する。話の中で、細かい筆致で描かれる大正時代の町の様子、建物の描写が、今の「谷根千」に残されている古い建物の印象とぴたりと一致し、胸の中にコトリと落ち着く。話の舞台はこの辺だろうかと考えながら道を歩くと、町の景色がより一層身近だ。
この団子坂では、安政3年(1856)から菊人形が行われていた。菊人形は、明治40年頃に最盛期を迎えるものの、関東大震災以後に廃業したという。菊人形のことは、漱石が著作「三四郎」に、鴎外は「青年」に、二葉亭四迷や正岡子規なども作品に登場させている。「谷根千」を散策しながら、文豪たちの生活の面影を探したり、作品世界に浸りきれるのも、この町ならでは。
また、ここには、現在でも約60もの寺がひしめいている別称“寺の町”である。そして、上野に隣接するために、東京藝術大学や国立博物館、東京都美術館などに関わりのある画家や画学生が多く住み、ギャラリーや画塾なども多い。それ以外にも、昔から受け継がれてきた伝統技能である江戸指物や銀細工の工房やギャラリーなどもある。「谷根千」は芸術の町でもあるのだ。
そして最後に、「谷根千」は猫町でもある。「ゆうやけ段々」や「谷中霊園」など、いたるところで猫を目にするし、また、猫グッズを扱うショップや、カフェも多い。
以上、ざっと紹介しただけでも「谷根千」エリアを散策するのに、4つのポイントの中から好きなものを選べる。だが、どのポイントを選んでも歩き疲れれば腹も減る、やはり人間悲しいかな花より団子のようである。さて、「谷根千」では美味しいスポットを探すとなると…、気になる店が一軒ある。
夕方になって「谷根千」を散策していると、狭い路地に家々から夕餉の匂いが漂い、お腹が減っていることを強く感じる。今回訪ねたのは、「SPICE MIXED UP」。民家に囲まれた隠れ家のような店である。この地には、昔から続いてきたと思わしき多くの店とともに、この地を愛して、ここで新しく開かれた店も多い。ここもそんな一軒家ダイニング。
店名の由来は「スパイスやハーブをふんだんに使った料理を出すからっていうのもあるんですが、店にやってくるお客さん同士を『ごちゃまぜ(=Mixed Up)』にして、上手く交流できるような店でありたいと思って名づけたんです」とオーナーの金城さんは言う。いわば、最近流行のSNS※2のリアル版で、「友達の輪が広がって行けばいいなと思って」と。実際、客からは「交友関係が広がる」と好評らしい。こういった、現代の社会で失われがちな人と人とのつながりや、触れ合いなどの大切さを再確認してしまうのも、それはここが「谷根千」と言う、人同士のつながりの濃い地域だからだろうか。
上がり框(かまち)で靴を脱ぎ店内に入ると、ローテーブルが板の間に置かれている。そしてなぜか白木のカウンター。壁を飾るのは、友人のアーティストに描いてもらったアフリカの祭りをイメージした大きな絵、小さな額はアンディー・ウォホールのエッチングなど。普通なら合わないかもと思うようなものまで、違和感なく空間に溶け込んでいる。それは、元はアパレルの店をやっていたオーナーが、
自分で考えた「外国人が表現したアジアン・リゾート」という、一ひねりしたインテリア。料理は、こちらもひとひねりが効いた、味わったことのない創作アジアンだ。サーモンのサラダにはたっぷりとオレンジの果汁が使われ、レモンのきつい酸味と違ってまろやかだ。肉料理にはチリチリとくるほどの辛味を使った焼き物などもある。
「谷根千」散策を楽しんだら、後はここでゆっくりと寛いで、友達の輪を広げてみては。
※2 SNS
Social Networking Service(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)。
mixiなどを始めとする、インターネット上で人と人とのつながりを構築するサービス。

住所 東京都台東区谷中2丁目5-13
電話 03-3823-3569
営業時間 月〜木18:00〜00:30(LO24:00)/
金・土・祝前日18:00〜02:00(LO01:30)
定休日 無休