奥本大三郎の“虫の目エッセイ” 第一弾 丹沢編

三、 昆虫相調査、丹沢の実情

<中編>

ある年の9月3日午前7時。上野池之端集合。車で丹沢に向かう。連日35度近い猛暑が続いている。今日でもう一か月も雨が降っていない。朝早いのに日差しがきつく、無帽でいると額が痛いほど。

車中話が弾む。一説によれば、人間の会話の八割は、自慢と他人の噂だというが、虫屋の会話の八割は、虫の情報と、虫屋の噂話で占められる。

「ゆうべ真夜中に、ベランダの朝顔をふと見たら、蔓にスズメガのでかい幼虫がじっと止まってるんだよ、おっ、と思ってね、写真撮っといたけど何スズメだろう」

と、筆者が訊いてみると、

「ああ、それ、エビガラスズメ。朝顔食うよ」

と即座に返事が返ってくる。細かいことをよく知っているなぁ、と思われるだろうが、虫屋はこれが普通である。エビガラスズメは世界的に分布の広い大型のスズメガだが、腹部がゆでたエビの殻のような色をしているのでこの名がある。

「うち、さっきの背の高いマンションの31階だよ。スズメガは飛翔力が強いから不忍池の周りで発生して、あんな高いところまで飛んでくるんだね。こっちの知らない間に雌が飛んできて卵を産んだんだ。僕の部屋に飛んでくるのは、自分でよく飛ぶ虫か、風に飛ばされる虫かのどっちかだ。ムクゲコノハも来たし最近はカメムシがよく来るね。エサキモンキツノカメムシなんていい虫が来るよ。不忍池のまわりにいるんだろうな」

すると、

「エビガラスズメの口吻伸ばして標本作るとおもしろいんだよね。口吻が体長と同じくらいあって、世界一口吻の長いマダガスカルのキサントパンスズメにもそんなに負けないくらいだよ」

「そうそう、それ。今度標本作っといてください。ファーブル館の展示に使うから」

と早速頼んでおく。

「それから、先生、日の出町にシイタケのホダ木もらいにいかないと」

「そうか、軽トラック一台分って言ってたね。僕も一緒に行きますよ。あの人、高校で僕の兄貴の同級生なんだ。もう七十越えてるけど元気だね」

「最近はシイタケ栽培も変わってきて、ホダ木使わないんだそうですよ。味がちがうって」

「菌糸壜ですか。オオクワガタ飼育とおんなじだ。オオクワガタだって、もし食用にするんだったら、クヌギの朽木で飼うのと、菌糸壜で飼うのとでは味が違うかもよ」

「は、は、そりゃそうだ、は、は、は」

「いや、食用もいいけど、菌糸壜で育てたオオクワガタの幼虫が抗癌剤の原料になるなんていうことになったら、大企業が乗り出してくるよ」

ゴミムシ:水辺など。

「そしたらまた技術がまた格段に進歩するだろうね」

「そう言えば昨夜テレビで殺人事件の現場映してたでしょう」

「ああ、死体を山の中に捨てたとかいう」

「そうそう、あの現場の映像で夜中にテレビのライトに蛾がいっぱいきてたね」

「おれも見た、いいとこだね、夜間採集に行きたいねえ」

「二人ともいったい何処見てんだか」

「は、は」

と、採集に行く時の車内は和やかなもの。子供の遠足と同じと言えば同じである。

八王子で地元在住のメンバーと待ち合わせ。車二台を連ねて地図を見ながら、「サントリー天然水の森」をめざす。途中コンビニに寄っておむすびと飲み物を買う。ペットボトルなどと言うものは実に便利なものだとつくづく思う。軽いし、一口飲んでまた栓を締めておけばよい。缶ジュースなら飲みきってしまわなければならない。便利と言えばなにもかも便利な世の中である。昔は採集地まで、電車とバスを乗り継ぎ、あとはもちろん歩くしかなかった。山を下るとき、最終バスに遅れないようにと必死であったが、因果なことにそういう時に限って、採りたかったその蝶が最後に姿を現わしたりする。またそれが高いところを舞っていてなかなか下に降りてこないのであった。

支度をするときも、弁当は朝早く起きて自分で飯を握るか、母親などに作ってもらったものである。飲み物はお茶を沸かしてなかなか冷めないのを水筒に入れた。

今は自動車にクーラーボックスを積んでいて、冷えたビールが入っていたりする。山道を延々と歩かなくても、採集ポイントまで横付けできる場合がある。で、そのポイントに目的の種がいなければ、また車に乗って次のポイントへ、ということを繰り返すこともある。だから採集マップというものがよく売れる。

かくして採集者が堕落したのである。他人が開発した、有名産地の有名昆虫ばかりを狙って、採れたとか採れなかったと言っているのでは新しい発見がないし、本当の面白みもない。昆虫採集というものは、自分の足で歩くのが基本で、ゆっくりゆっくり、地面や草木を見て揺すってみたり、葉を裏がえしたりしながら行くのでなければならない。後ろから見ていると、「なーんにもいない」とぼやきながら歩いている人のすぐ背後を、目的のその虫がちらちら飛んでいることがよくあるのだ。

奥本大三郎

ボードレール、ランボーなどの象徴派詩人の研究を専門とするフランス文学者。
埼玉大学教養学部名誉教授、大阪芸術大学文芸学部教授。
幼少より虫を愛好し、日本昆虫協会会長、日本アンリ・ファーブル会理事長、ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」館長を務める。1995年「楽しき熱帯」でサントリー学芸賞受賞。サントリー世界愛鳥基金選考委員にも名を連ねる。