奥本大三郎の“虫の目エッセイ” 第一弾 丹沢編

三、 昆虫相調査、丹沢の実情

<前編>

アンリファーブル会・会員の面々

この三年、毎年我々の仲間で丹沢に昆虫採集に行っている。場所はサントリー天然水の森である。調査隊のメンバーはいずれも、NPO日本アンリ・ファーブル会の会員で、アマチュアのいわゆる虫屋、つまり、虫が好きで、昆虫採集を趣味とする人たちである。専門分野、というか特に好きな虫は蝶、という人が多いけれど、蝶、甲虫以外の雑虫に手をだす人も、この会には少なからずいる。虫の好きな人というのは、もともと生き物全般の好きな人間であって、鳥類、魚類、爬虫類その他の生物にも興味があるし、良い標本を得るためにその虫を飼育することから、幼虫の食う植物、つまり食草についても自然に詳しくなっている。中には山に通っているうちに、山菜やキノコ採りが上手になる人もいる。爬虫類や小型の哺乳類等も飼っている人は、餌のコオロギの飼育にも熟達しなければならないから、家では一年中コオロギがリーリーリーと鳴いている。というようなことにもなる。

余談だが、大学や研究機関に籍を置く昆虫学者が“虫屋”であるかと言うと、必ずしもそうではない。虫なんか別に好きではなく、ただ仕事で、虫は研究材料として扱っているという人も多く、そういう人は、効率の良い害虫駆除となると、平気で農薬の空中散布を指示したりすることがある。

アンリ・ファーブル会の仲間は、そういう農薬関係の利害とか責任は負わされていないので、自然の復元と、人間の心の復元と言えば大げさだが、昔のような、虫好き、自然好きの子供を増やすことを念願としている。もっとも、子供のころ散々カブト、クワガタと遊び、トンボ捕りに興じた世代の人々が、経済発展のためにと、日本の自然の大破壊を行ったあげくに、「このごろは虫が少なくなった、残念だ」などと、とぼけたことをいっているわけであるから、虫について子供に教えるときには、自然の中における「人間と虫」という関係がよく分かるようにしなければなるまい。

そして我々が理想とするのは、本来その地に昔から存在した動植物が、バランスを保って生息している自然である。山には植林されたスギばかりとか、湖沼にはブラックバス、ブルーギルしかいない、というような、特定の動植物だけが、いわば跳梁跋扈しているのではない自然。それこそが、今やかましく言われている「生物多様性」の豊かな自然と言うことになる。それはまた、サントリーの天然水の森構想とも一致するはずである。そうしたことを実現していくためには――早々と結論を言ってしまうようだが――丹沢に元からあった植生を復活させ、昆虫をはじめとする動物が戻ってくることを待つしかないのである。しかしその前に、一体ここで何が起きているのか、現状について“虫屋の目”で、つぶさに見て分析する必要があるであろう。

丹沢の昆虫相調査に加わる会員の中には、定年退職して比較的時間の余裕のある人と、現役の人の両方がいるから、調査の日もまたウィークディと休日の両方にわたることになる。また、蝶や蜻蛉は昼間の採集で得られるが、甲虫や蛾のような夜行性の昆虫を本格的に採集するには、夜間採集によらねばならない。そういう調査を3回行なった。たった3回とはいえ、丹沢の現状について、ある程度のことは分かったように思う。

奥本大三郎

ボードレール、ランボーなどの象徴派詩人の研究を専門とするフランス文学者。
埼玉大学教養学部名誉教授、大阪芸術大学文芸学部教授。
幼少より虫を愛好し、日本昆虫協会会長、日本アンリ・ファーブル会理事長、ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」館長を務める。1995年「楽しき熱帯」でサントリー学芸賞受賞。サントリー世界愛鳥基金選考委員にも名を連ねる。