奥本大三郎の“虫の目エッセイ” 第一弾 丹沢編

二、 水はすぐ流してしまわずに、楽しむべし––エンジョイ・ウォーター

<前編>

子供の時、日本は国土の七割が山である、と学校で習った。しかし、そのまた四割がスギ、ヒノキ、カラマツの人工林である、というような細かい話は教えてもらわなかった。

山の木を伐って、針葉樹に植え替えることは、正しい、真っ当な仕事であると、特に教えられなくても誰もが信じていたようである。林業に携わる人にとって、山というのは本来、材木を育てるための畑なのである。キノコも山菜も、薪用の枯れ枝も、山里の人々はもちろん、取って利用はしていたけれど、これらはあくまでも副産物にすぎず、一番大切なもの、財産の基本は建築用材であった。何十年に一回、子供の学費とか結婚の費用でお金が要るときにこれを伐る。そしてまた孫子のために新しく苗木を植えるのであった。つまり、スギ、ヒノキのサイクルに要する時間は30、50年と長いけれど、これはすなわち平地人のコメ、ムギと同じなのであった。だから、植えられる限りの土地に針葉樹を植える。

オオベニヘリコカゲ:小型の蛾。(夜間採集)

広葉樹などと違って針葉樹は、真っ直ぐな建築用材になる。高値で取引されるから、山の持ち主は一生懸命スギ、ヒノキを植えた。とくに戦後、住宅が不足するようになってからは、これらの木さえ植えれば補助金が貰えたという事情もある。昭和25年頃、一本植えれば100円、というような状況があって、とにかく植えなければ損、損、と皆考えたらしい。山頂付近の、傾斜がきつくて表土が浅く、スギがろくに育たないような場所でも、とにかくそれを植えて補助金を貰ったという。家代々の山林地主で、スギのことをよく知っている人までそんなところにスギを植えることに躊躇しなかった。もちろんそのために、古くからの広葉樹林はまず伐り払ったのであった。

ところで、戦後の農地改革、あるいは農地解放について、今はもう語られることは少なくなったようだが、これは普通なら、流血の惨事なしには実施できない、大きな革命だった。

その内容は、地主の所有している小作地を、政府が強制的に安値で買い取り、実際に耕作していた小作に安く売り渡すというのである。それだけのことが、1947年から1950年ごろまでに成し遂げられた。

アメリカの進駐軍、GHQの強権で推し進められ、しかも大人しい、というか、諦めのいい日本人地主が、暴動も何も起こすことなくそれに従ったために、奇跡の様に無血で成し遂げられたのである。アメリカの理想主義者たちは韓国、フィリピンでも同様にこれを行おうとしたが、結局うやむやのままになったという話だが、詳しいことは知らない。

地主としては大不満であったろうが、戦後日本の活力は、この改革によってもたらされたのではないか。それまで水のみ百姓等とさげすまれ、食うや食わずで、教育を受ける機会もなかなか与えられなかった元小作の人達が、ようやく人間らしい生活ができるようになった。そしてその中から優れた人材が輩出することになったのである。

同様に、財閥解体、極端な累進課税のシャウプ勧告と、日本の赤化を防ぐという意味もあってか、本国アメリカではとうてい無理な民主化がすすめられたが、その結果日本は、資本主義体制下の社会主義国という珍しい社会になった。もちろん、贅沢な建築物とか、美術品の大コレクションというような貴族文化、ブルジョワ文化は新たに作り出すことは出来なかったが、貧富の格差の比較的少ない国ができあがったわけである。

奥本大三郎

ボードレール、ランボーなどの象徴派詩人の研究を専門とするフランス文学者。
埼玉大学教養学部名誉教授、大阪芸術大学文芸学部教授。
幼少より虫を愛好し、日本昆虫協会会長、日本アンリ・ファーブル会理事長、ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」館長を務める。1995年「楽しき熱帯」でサントリー学芸賞受賞。サントリー世界愛鳥基金選考委員にも名を連ねる。