SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2026年10月16日

#1038 田代 智史 -1『なんて素晴らしいチームなんだろう』

サンゴリアスでアスレチックトレーナーを12年、その後、野球界へ。プロ野球のホークスで6年、メジャーリーグのメッツで2年の計8年活躍し、今シーズン、サンゴリアスに復帰した田代ヘッド・メディカル。2回にわたってカムバックインタビューをお届けします。(取材日:2026年8月上旬)

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◆ラグビーって本当に難しい

――お帰りなさい。メジャーリーグの選手の身体への対応の仕方は、やはり進んでいますか?

メジャーリーグも進んでいますし、日本のプロ野球も進んでいると思います。昔は150km/hの球を投げる人たちはあまりいなかったのに、特に控えの選手で、負け試合の中継ぎの投手って140km/h中盤だったのが、控えの選手が150km/hを超えて投げる選手が多くなっています。選手が進んだ分、サポートするスタッフの技術も向上していると思います。

――ラグビー界から野球界に移ってみて、いちばん違ったことは何ですか?

全く違うから行ったんですけどね(笑)。繊細さも違いますし、取り組みも違いますし、トレーナー業務も違いますし、組織の大きさも違います。

――人数は多いんですか?

めちゃくちゃ多いですね。選手だけでも、僕が最初に行ったのがプロ野球・ホークスの宮崎キャンプなんですけれど、選手が100人いて、スタッフが100人いました。そして最初のキャンプで全員が集まるということが他の球団にはない醍醐味で、ホークスは3軍まであって、その全員が集まって、最初に会長の訓示から始まり、神社参拝してと進んでいくので、もう「すげーな」って感じですよ(笑)。

前提として、僕が行ったホークスの三笠杉彦GMは、実はお父さんが釜石が連覇していた時のチームディレクターでした。その息子の三笠杉彦GMがいわゆるラグビー畑で、神戸製鋼の平尾さんたちが自宅に遊びに来て、みんなで食事をするような環境で育ち、東京大学を卒業してNTTテレコムに入社して、それからソフトバンクがNTTテレコムを買収して野球チームを作るとなった時に、抜擢された人です。その三笠杉彦GMが、野球界のトレーナーは遅れていて、間違いなくラグビー界の方が進んでいるから、その文化をぜひ入れて欲しいということで、ホークスに行きました。

――それで実際に行ってみたら、野球界の方が遅れている部分があったんですか?

めちゃくちゃ遅れていました。その時「なんてサンゴリアスは素晴らしいチームなんだろう」と思いました。やっぱりラグビーって素晴らしくて、ラグビーを見ていて他の競技のチームを見ることは可能ですけれど、他のチームを見ていて簡単にラグビーを見ることができるかと言うと、見れないと思います。それぐらい難しい競技をしていると思います。アメリカンフットボールとも違います。アメフトは1プレー毎に止まるので。フィールドの中に入って判断するというのは、ラグビーだけだと思います。だからラグビーって本当に難しいですし、それが醍醐味ですよね。

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◆ストレングス&コンディショニングコーチ

――野球はどこから手をつけたんですか?

僕はトレーナー採用が決まっていて、ちょうど敬介さん(沢木)が前回の監督の時で優勝して、優勝祝賀パーティーがあって、その10日後に宮崎でキャンプでした。だからその年はオフがほぼなくて、サンゴリアスで優勝した10日後に、その200人の宮崎キャンプでした(笑)。それでトレーナー採用だと思って行ったら、野球界のトレーナーはジャージを着る裏方さんと言われて、コーチはユニフォームを着るユニフォーム組と言われています。それで給与や待遇が違ったりします。コーチ契約と裏方契約があって、裏方さんと言われるのがトレーナーでした。

ストレングス&コンディショニングコーチはコーチなので、今は契約の中でトレーナー寄りになっているんですが、ユニフォームを着るんです。僕はトレーナー採用だと思って行ったら、04番のユニフォームが用意されていて、ストレングス&コンディショニングコーチ採用でした(笑)。だからベンチにも入りました。トレーナー採用じゃなくてS&C採用だったのがなぜなのかは、はっきりと聞いていないんですが、トレーナーってマッサージしかしないので、S&Cが指導をするという強力な縦割り社会があるんです。

――そこで田代さんに白羽の矢が立ったというのは、優勝したラグビーチームにいたということもあるわけですか?

あると思います。あとサンゴリアスという部分もあると思います。エディー・ジョーンズと仕事をしたということもあると思いますし、沢木敬介さんの監督の下でやったということもあると思いますし、どれだけやれるのかを試されたということは間違いなくあると思います。三笠さんと話していると、「俺は沢木が大好きなんよ」ってよく言っていました(笑)。「誰誰が大好きで、あのコーチの武骨な感じが好きなんよ」って。

――その三笠GMと話し合いながら改善していったんですか?

そうですね。僕は最終的にはチームディレクターになったので、1週間に1回、フロントオフィスでGMとハイパフォーマンスのディレクターとして個別にミーティングをしていました。そこで毎回、そういう話をしていました。

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◆データサイエンス

――いちばん改善されたと思うところはどこですか?

データサイエンスです。数値化をどうやって取り入れていくか。トレーナーさんはマッサーなので、自分の手技に自信を持っています。それに対してフロントオフィスがよく言っていたことは、「我々は素人だから、あなたにはディレクターとして翻訳家になって欲しい」ということでした。「何をしたらいいんですか?」と聞いたら「翻訳をして欲しい。誰が上手いかという主観的なところでも良いけれど、それだとわからないから、IT企業が持っているプロ野球チームは数値を使って世界一を取りに行く。そういう球団を作りたいんだ。数値を理解した頭の良い選手を作りたいんだ」と。

そういう目標が明確にあったので、我々がやっているトレーナー業務も数値化を目指して、可動域を測定して、疲労度を取ったりして、数値化を積極的に取り入れました。それに関する物の購入に関しては、青天井と言っていただいて、「その代わりしっかりとリサーチをしてくれ」と言われました。

――現場のトレーナーからはクレームが出ませんでしたか?

出ますよ。そこはサンゴリアスでのチームソーシャルで培ったコミュニケーション能力というか、やっぱりコンタクトスポーツでは喧嘩になりながらレギュラーを奪い取るのをガチガチでやって良いチームを作っていこうとサンゴリアスでやっていたので、その必要性を問いながら、ホークスでもやりました。

――相当難しそうですね

めちゃくちゃ難しかったです。しかも僕はS&Cで採用されながら、治療をして良いと言われていました。今までそういうことをした人はあまりいなくて、ユニフォームを着た人が治療部屋に入って、ジャージじゃない人が鍼を打つとかはご法度でしたので、それは大変でした。

――そんな中でどう進めていったんですか?

最初はみんな、「あいつ何やるの?」って(笑)。良いことでも、そういうことを積極的にアクセル踏んでやってしまうと、やっかみが起きますし、トラブルになるという理解力が僕にはありました。それはサンゴリアスで若かりし頃に、諸先輩方にご教授いただいたので(笑)。その経験があったので、あまりドライブをかけないようにしなければいけないということと、サンゴリアスが優勝して10日後に行っていたので、僕も疲弊していて、とりあえずチームのことを見て、ただチームに貢献しなければいけないので、出来ることをしようというスタイルでやっていました。

決めていたことはふたつで、野球は挨拶文化なんです。ひとりひとりに「おはようございます」と挨拶をしないといけませんし、2回目に会った時も先輩に対してはしなければいけないと聞いていたので、挨拶をめちゃくちゃ丁寧にするということ、あとゴミ拾いと練習時間が長いので水がなくなってしまうので、ボトルに水を入れるという作業を、サンゴリアスでは学生トレーナーに手伝ってもらっていましたが、それをひたすらやっていました。そうしたら「あいつは良い奴なんじゃないか」と広まって、そこから人間関係が上手く回り始めました。「あいつは何するんだろう?」って見たられていたのが、「あいつは何もしねーじゃん」って(笑)。それでクールの後半になってくると、みんなが忙しくなっていって「ちょっと手伝って」みたいになっていきました。

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◆腕が良いらしい

――最初に選手側との信頼が出来たんじゃないですか?

いちばん大きかったのは和田毅さんです。1980年生まれの同級生で、僕は松坂世代なので、和田世代なんです。和田さんはその年にメジャーから帰ってきて、肩を怪我して1年間投げられない年でした。今までの野球人生の中でいちばん苦労した年に僕が入団しました。それでファームで巡回していて、基本的にはリハビリ組のS&Cなので、リハビリを見ながら他のところの手が足りなければサポートするということをやっていましたが、基本的にはリハビリ組のストレングスとコンディショニングを鍛えていくということをやっていたので、それで和田さんの近くに寄り添うことが出来ました。

――そのリハビリを経て復活しましたよね

はい、それにはいろいろなノウハウがあるんですけれど、ある日、和田さんに鍼を打ちました。その日は人が足りなくて、どうしても打ってくれと言われてやったら、和田さんが「うわーーーー!!」って言って、それを聞いて僕は「終わってしまった」と思いました(笑)。鍼を打ったら良いところに当たったみたいで大絶叫して、それまで僕はあまり治療をしていなくて和田さんがそんなに叫ぶもんだから、周りは「やべー、あいつやっちまった」って空気になったんですけれど、次の日に和田さんが来たら「めちゃくちゃ良い」って言ってくれて、「また打ってくれ」と言われました。また打ったら大絶叫で、それがスピーカーになって、「とてつもないことやらかしているけど、めちゃくちゃ腕が良いらしいよ」って広まって、それから頼まれるようになりました。

その翌年に和田さんがリハビリ組で準備が出来て、1軍に行くんです。その2年目に僕は1軍のS&Cに行くんですけれど、基本的に和田さんは僕を頼ってくれていたので、毎回の準備で和田さんが1年やってきたリハビリを、今度はパフォーマンスを発揮できるようにサポートしていました。それで3年目の時に「ディレクターになってくれないか」という話が来ました。そこから三笠GMとより強固になっていきました。

――和田投手の肩の治し方はラグビーと同じなんですか?

いや、ちょっと違いますね。基本的な治療は一緒なんですけれど、ラグビーの治療をしたら治るかと言うとそうではありません。だから勉強しました。優秀な同僚がたくさんいるので、ひたすら聞きました。そうすると教えてくれて、その中から共通点は何なのかをひたすら考えていったら、「あ、これだな」というところに結びつきました。いろいろな人に聞いて、その共通しているところを見つけられたので、「あ、これだな」と思って治療しました。

――そういう関係の中で、よくメジャーリーグに行かせてもらえましたね?

そうですね。千賀選手(滉大/ホークス-メッツ)が海外FAを取得する前から、「付いてきてくれないか」と相談されました。僕は三笠杉彦さんと仕事をしていることがとても楽しかったし、チームを作っている最中でした。メジャーへ行くというのは大きい話でしたが、簡単に行ってしまう生き方はしたくないなと思い、即答でお断りしました。そうしたらメジャー1年目の途中くらいにも相談が来て、来シーズンでは僕の力が必要だというメールをもらったので、そこからはフロントと交渉しました。最初に話が来てお断りした時から、僕は仕事のやり方を変えて、自分があまりやらずに、「僕がいなくてもぜんぜん機能しているじゃん」という状態にしたつもりです。だからこそ「行っても良いですか?」という話が出来たと思います。

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<続く>

(インタビュー&構成:針谷和昌)
[写真:長尾亜紀]

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