V・プレミアリーグの悔しさを次につなげる

— 2013/14 V・プレミアリーグは6位という結果で終えました。どんなことを感じながら戦ったリーグでしたか?
そうですね…僕自身、昨年末の天皇杯で腹筋を怪我してしまったし、他にもいろいろな選手が怪我をして、チーム状況はよくなかったと思います。でも、その中でもやらなくちゃいけなかった。いろいろと模索しながら戦いましたが、こういう結果に終わって、非常に悔しい思いをしました。
— ただ、3レグから4レグにかけて5連勝と、四強入りへ土俵際で意地も見せました。そのあたりは今後につながる収穫でしょうか?
波に乗れて、前半戦では歯が立たなかった相手にもいいゲームができたのはよかったです。でもやっぱり、大事な場面で、チームに足りないものがあったから、勝ちきれずにああいう結果になったのかなと思います。5連勝の後、4レグの金沢で連敗したことが、四強入りを遠ざけてしまいました。
— 3月15、16日のジェイテクト戦、堺戦にフルセットで敗れた試合ですね。
ジェイテクト戦は、僕がレセプションを崩されて迷惑をかけてしまった。堺戦は、すごくチームの雰囲気もよかったし、みんなで絶対に勝つんだという気持ちでやっていたけど、第5セットの最後、相手のペピチ・ミラン選手に連続でサービスエースを奪われてしまった。やっぱり勝負所でああいうプレーをできる選手がいると強い。自分たちもなんとか踏ん張ってやらなきゃいけなかったけど、その部分が足りなかったことが、敗因じゃないかなと思います。
選手が何人か抜けて、精神的支柱になる人が少なくなっていた中で、(山村)宏太さんはすごく引っ張ってくれていました。たぶん、自分がキャプテンだから、負けたら一番悔しいと思うんですよ。でもそれをこらえて、負けた後にすぐ、「また次、明日の試合があるんだから、下向かないで頑張っていこーぜ!」「ここで終わりじゃないぞ」と言ってくれた。それがすごく心に残っています。宏太さんが全員に向かってそういう発信をしてくれたから、最終的に残念な結果にはなったけど、みんな最後まで頑張れたんじゃないかなと思います。

高校時代の教えが今の土台に

— 米山選手がバレーボールを始めたきっかけは?
親も兄弟もみんなバレーをやっていたので、小学1年生の頃、気づいたら始めていたという感じです。でも、本当にバレーボールを始めたと言えるのは高校に入ってからかなと思います。それまではやりたいようにやらせてもらえていましたが、高校では、それまで許されたことが許されなかったり、それじゃダメなんだよと教えてもらいました。
— 許されなかったことというのは?
今の僕は他のスパイカーに比べたら小さいですが、小学生の頃は周りの子供より体格がよくて力もあったし、運動神経もよかった。バレーボールも一番できたから、お山の大将みたいな感じで、中学校まではやっていました。坂戸西高校に入っても、1年生の時から1人だけ試合に出させてもらっていました。他の1年生はネット張りやドリンク作りといった裏方の仕事をしていたけど、僕はやらずに、2年生や3年生と一緒に過ごしていたら、ある日、萩原秀雄監督に呼ばれて、「同級生がネット張りしてるのに、なんでお前だけやらないんだ」とこっぴどく怒られました。
「3年間一緒に戦っていく中では、そういうことがすごく大事になる。コートに入る7人だけでできるのかといったら、そうじゃないだろ。球拾いをしてくれる人がいたり、反対側のコートにBチームとして入ってくれる選手がいるからお前らが上達できるんじゃないのか。自分がよければそれでいい、じゃダメなんだ」。そういうことを本当にいろいろと教わりました。バレーだけやっていればいいんじゃなくて、もっと勉強も頑張れと言われて、勉強もしたんですけど、成績はダメでしたね(笑)
— そうした高校時代の教えが今もベースになっているのですか。
そうですね。でも、まだ高校ではちゃんと理解しきれていなかった。高校を卒業して萩原先生のもとを離れたら、またお山の大将になっていました。日体大3年の秋リーグの時に、萩原先生が試合を観にきてくださったんですが、その時僕のよくない態度が出ていて、試合後に挨拶に行ったら、めちゃくちゃ怒鳴られました。「セッターのトスに対して、なに打ちにくそうな顔してんだ」「お前1人でやってるわけじゃないだろ」「そんなんだったらバレーボールやめちまえ」と言われて、ものすごくこたえましたね。それから、「できてない選手がいたら、お尻をたたいて、頑張っていこうぜとお前が引っ張っていくぐらいになれよ」と諭されました。そこから考え方がすごく変わりましたね。
— どう変わりましたか?
以前は「全部自分でやってやろう」という感じだったけど、やっぱり自分だけの力じゃどうにもならない時はあるし、そういう時に仲間の力が絶対必要。Vリーグもそうですが、大学の大会にもスパイク賞などの個人賞があって、以前はそれを結構気にしていたんです。自分が今何位にいるのかなって。でもそれからは、自分どうこうじゃなくて、チームが勝てばいいや、という考え方に変わりました。今でもそれはすごく大切にしていますし、だからこそ大学3年、4年の時は、全日本インカレで連覇できたり、いい結果が出たんじゃないかなと思います。

「ライバルはいません。でも勝負がかかったら絶対に負けたくない」

— 学生時代はずっと2歳年上の兄・裕太選手(東レ)と同じチームに所属していましたが、お兄さんの存在はやはり意識していましたか?
意識しないようにしていました。高校の頃はめちゃくちゃ比べられましたけどね。「お前は兄ちゃんと違ってできねーな」って言われたり。そういう時はさすがにイラッとして、態度にもろに出ていたかもしれないです(笑)。でも気にしないようにはしてましたね。「兄貴はオレのライバルだ」というふうには思ったことはないです。というか、兄貴に限らず、誰かをライバルと意識したことはありません。例えば同級生には清水(邦広)や福澤(達哉、ともにパナソニック)がいて、高校生の頃から活躍していましたが、ライバルだとは思っていませんでした。向こうは全国区で、ポテンシャルとか将来性がものすごくあったけど、僕は全然違いましたから。
— そうなんですか? でもかなわないと思っていたわけではない?
いや、かなわないと思っていましたね。高校2年の時に初めて国体の代表に選ばれて、そこで福澤のプレーを目の当たりにした時に、やっぱりすごく身体能力が高くて、「これは無理だわ」と思った。ただ、負けず嫌いだから、やるんだったら勝ちたいというのはずっとありました。その1人の選手がすごくて、個の力では勝てないかもしれないけど、その個を、他の人の力を借りて倒すことはできるじゃないですか。そこがチームスポーツの面白いところかなと思います。
— 大学卒業後はサンバーズへ。その時はお兄さんと同じチームへ、という気持ちはなかったのですか?
それはなかったですね。大学の恩師の森田淳悟先生に、「同じような身長だし同じポジションだから、2人が同じチームで一緒にコートに立つことは滅多にない。どちらかが出られなくなる」というようなことを言われましたし。チームカラーや、どんな雰囲気でプレーしているのかというのを考えた時に、僕はサンバーズが一番いいなと感じたので、サンバーズを選びました。
— 当時のサンバーズの雰囲気をどう感じていたのですか?
初めて練習に参加した時に一番感じたことなんですが、すごくピリピリしていた。それまで自分がやったことのない空気で、すごく緊張感を持った中でバレーボールをしていました。この中でやれば、自分も高められていくんじゃないかなと感じました。
— この先、バレー選手として米山選手が目指すのはどんな姿でしょうか?
自分が出ている出ていない関係なく、常にいろんな部分でチームを引っ張っていける選手になりたいと思います。今までは、年上の人についていけばいいやって感じだったんですけど、教えられる部分は教えていかなきゃいけない立場に、もう自分も来ているので。年齢的には下から数えるより上から数えた方が早くなりましたからね。
— 5月1日には今季最後の大会、黒鷲旗が開幕します。昨年優勝を果たした大会ですが、今大会、米山選手がファンの皆さんに注目して欲しいところは?
サーブですかね。リーグではすごく悔しい思いをしたので、その悔しさをバネにして、黒鷲旗でしっかり結果を出せるよう頑張りたいです。応援よろしくお願いします!

米山 達也

埼玉県比企郡出身。ウイングスパイカー

破壊力抜群のスパイクとサーブは見る者を魅了する。爆発すれば誰も止めることができない超攻撃的アタッカー。

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