黒鷲旗は“任されている”と感じて燃えました

— 優勝した5月の黒鷲旗では大活躍でしたが、大会にはどういう思いで臨みましたか?
それまでも何度か先発で使ってもらったことはありましたが、その時は、僕がたとえダメでも代わってやってくれる人がいるという立場でした。でも今回の黒鷲旗は、怪我人が多くて、僕が結果を出さなきゃいけないという状況でした。チーム的にはピンチだったかもしれませんが、僕的には、自分に託してくれている、任されているという感じがすごくあったので、試合に挑む前から気持ちがたかぶって、やる気に満ちていました。それに、リーグ中は少しでもダメだったら代えられるというプレッシャーがあったんですが、黒鷲旗では、この試合は任せてくれるなというものがあったので、思い切ったプレーをしやすかった。そういうことが重なって、いい状態でできていたんですけど…、最後までもたなかったですね(苦笑)。
— 初戦から5試合連続で先発しましたが、準決勝で途中交代となり、決勝戦では先発を外れました。
準決勝の4セット目に足をつってしまって。「ぽっと出で、調子に乗るなよ」って体が言ってるのかなと(笑)。もし決勝まで出て活躍して、優勝していたら、思い上がっていたかもしれませんから。
— 大会中は「自分のやるべきことは守備とつなぎとサーブ」と言い続けていましたね。
いきなり新しいことはできないので、自分が今持っているもので、他の人に勝るものは何かなと考えたら、そういうところだったので。
— その点を持ち味にしようと意識するようになったのは?
高校の頃からずっとですね。僕の同級生には清水(邦広)、福澤(達哉)(ともにパナソニックパンサーズ)や、塚崎(祐平、JTサンダーズ)、鈴木(悠二、東レアローズ)といった大きい選手がいたので、身長の高くない僕が同じプレーをしていたら勝てない。だからレセプションとか、そういう選手たちが苦手とするところで絶対に差をつけて、違う土俵で戦おう、と思いながらやってきました。
— 有力選手が揃っていた学年だからこその気づきだったんですね。
そうですね。それに、ヨネ(米山達也)の存在もすごく刺激になりました。大きい選手を見ていて「これはかなわねーな」と思うこともあったんですが、ヨネは僕と同じくらいの身長でも、大きい選手たちを上回る活躍をしていたので、絶対に勝つすべがあるんだと思えました。
— サンバーズ4シーズン目の黒鷲旗で見事に開花したわけですが、今季のどういう取り組みが実ったのでしょうか?
一つは、体が変わったということです。これまで僕は、膝や肩などすごく怪我が多くて、思うようなプレーができないまま過ごしていました。でも一昨年くらいからお尻の筋肉を使った動き方を常に意識するようにしたら、膝の故障が減って、昨年の秋以降はまったくありませんでした。怪我をするとそれまで積み重ねてきたものが崩れてしまうし、体力的にも技術的にも取り戻すのに時間がかかる。それがこの1年は格段に少なかったことが大きかったと思います。
もう一つは、パオロ(・モンタニャーニ)監督が来てから、自主練をさせてくれなくなったことですね。最初は、やらせてほしいと言いに行ったり、こっそり早くきてやろうとしたりもしたんですが、ダメって言われて(苦笑)。だから渋々言われた通りにしていたら、体の調子がどんどんよくなっていったんです。全体練習をベストのコンディションでやって、そこで出し切ってほしいというのがパオロの考え。それまでは、特に試合に出ていない選手は、出ている選手との差を縮めたくて、全体練習の後につめこんでしまっていたけど、つめこみすぎはよくないんだなと感じました。数多くやることも大事だけど、その時の体に見合ったやり方をしないといけないということですね。

ようやく“サンバーズの一員”だと確認できた

— 中学時代にJOC杯で優勝し、その後はユース、ジュニアの代表に選ばれ、ずっとトップレベルを経験してきましたが、バレーから離れたいと思ったことはあるんですか?
何回もありますね(笑)。一番大きかったのは大学1年の時です。ユースのアジア選手権に出場したんですが、僕は調子が悪くて、上位リーグ進出がかかった試合も、フルセットの最後に僕のスパイクミスで負けたんです。他にもいろんなことが重なって、もうバレー界にいられないなという心境になりました。東亜大ではまだ試合に出ていなくて、その頃の僕にとっては(世代別の)代表が自分の居場所というか、すべてをかけていたものだったので、その場所がなくなってしまったら、もうバレーはいいかなと思った。今までのバレーの松崎は捨てて、新しい自分になろうと思って、下関からフェリーで大阪に向かいました。とにかく遠くに逃げたくて。当時の僕にとっては、大阪は外国ぐらいの感じだったので(笑)。
でも、結局は長崎の実家に帰りました。親には「誰にも言わんで」って頼んでいたんですけど(苦笑)、家に帰った次の日に、大村工高の恩師の伊藤(孝浩)先生が家に来てくれました。どんな怒られ方するんだろうと思ったら、先生はすごく優しくて…。僕を車に乗せて山に連れていってくれて、そこから僕の地元の大村の景色を一緒に見ながら、いろいろな話をしてくれました。「ここから見たら(高校の)体育館なんてあんなちっちゃいんやぞ。そんなところでやってることなんだから、そう気負うなよ」ということを言ってくれましたね。もう先生が来てくれた時点で、「あ、戻んなきゃな」と思っていたんですけどね。
— それで無事に大学に戻ったんですね。
ただ、次のジュニアの招集の通知が来た時は、断ろうと思っていました。でも、ユースでも一緒だった岡本(祥吾)が、「このまま終わるのは嫌やし、もっかいやろうや」というメールをくれたんです。それがほんとに嬉しかった。ユースは僕のせいで負けたから、「そんな勝負弱いヤツともうやりたくねー」くらいに思われているのかなと思っていたのに、まだ信頼してくれていたので。だから「また行こう」と考え直しました。
— そのジュニアのアジア選手権では準優勝し、松崎選手はベストスコアラーになったんですよね。そして大学卒業後サンバーズへ。
サンバーズは、僕にとって憧れのチームでした。僕は小学5年からバレーを始めたんですが、初めて見たVリーグの試合がサンバーズ対NECだったんです。地元・大村にVリーガーが来るということで、チームみんなで見にいきました。ジルソン(・ベルナルド)さんや、全日本で活躍していた荻野(正二)さん、佐々木(太一)さんたちがいて、その時からずっと憧れていました。だから実際にそのチームに入れるとなった時には、いろいろ複雑な思いがありました。
— 複雑?
もちろん嬉しかったんですけど、その一員になれるかなーという不安もありました。肩の故障を抱えていたこともありましたし、自分の夢として持っていたサンバーズのイメージを、崩しちゃいけないという思いがあって…。「そんな選手でも入れんのかよ」と思われたくなかったけど、サンバーズに見合うプレーをする自信がその頃はなかった。それに、同級生の岡本もヨネも内定の頃から活躍していたので、ヤバイなという気持ちもありました。
— そういう不安がなくなったのはいつ頃ですか?
今回の黒鷲旗で、やっとですね。V・プレミアリーグのチーム相手に自分が出て勝ったことがなかったので。「いいプレーをするけど、勝てないな」じゃダメで、「出しても勝てる」と思われないと、使ってもらえないし、一員としても認められないと思っていました。今回はそれを証明できたというか、自分でも確認できた大会でした。
— 12/13シーズンは黒鷲旗優勝で締めくくり、また新しいシーズンが始まりました。今季はどんなところをレベルアップしていきますか?
この夏はまた肉体改造を計画しているので、僕のスパイクでレシーバーが吹っ飛ぶくらいパワーアップしたいですね。サーブでも、もっとノータッチエースを量産できるようになりたい。そういう攻撃的部分を強化して、なおかつ今まで通りつなぎの部分もやっていきたいと思います。
— ファンの人たちに見てほしいところは?
うーん…ヒーローインタビューされているところを見てもらいたいです(笑)。まだ一度もやったことがないので、してもらえるような活躍をしたいですね。
— 最後にファンの皆さんにメッセージをお願いします。
僕にとってはここがスタート。本当に、やっとスタートラインに立てたなと思っています。同期が3人いますけど、「やっぱりこの年代は違うな」と思われるようなプレーを見せていきたいし、やっと自分もそのラインにたどり着けたと思うので、岡本、ヨネと3人で旋風を起こして、もっとサンバーズを盛り上げていきたいと思っています。今シーズンも応援をよろしくお願いします。

松崎 廣光

長崎県大村市出身。ウイングスパイカー。

黒鷲旗ではスタメンで出場し、その研ぎ澄まされたサーブでポイントを量産。宙を舞うようなジャンプから繰り出されるスパイクも必見の若きエースアタッカー。

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