“オレたちが新しい時代を作る”
という楽しみがありました
「みんなでやってるな」という感覚にひかれてバレーの虜に
- — 今やサンバーズや日本代表を支えるベテラン選手となった山村選手ですが、バレーを始めたきっかけは?
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ご近所さんが小学校のスポーツ少年団でバレーボールをやっていて、「一緒に行ってみれば?」とすすめられたのがきっかけです。小学3年生の終わり頃でした。でもその後、群馬から東京に引っ越して、引っ越し先にはバレーチームがなかったので、小6の1年間はできませんでした。バレー部を作ろうとして、校長先生に掛け合ったんですけど、子供の力ではどうにもならなくて(苦笑)。中学からはまたバレー部に入りました。
- — 小学生が校長先生に直談判?その頃からよほどバレーが好きだったんですね。
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好きだったんでしょうね。バレーって、「ボールを落とさない」という点がすごく特殊な競技だと思う。みんなで拾ったボールを、つないで、誰かが打って、相手コートに落とすというのが面白かったし、「みんなでやってるな」という感じがすごく強いスポーツだから、たぶんひかれたんじゃないですかね。
- — 中学からはバレーを再開。ただ、「高校まではずっと無名校だった」という話をよくされていますね。
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そうですね。中学の時は部員が足りなくて、廃部の危機にさらされていたほど。当時はサイドで、ローテーションによってレフト、センター、ライト全部でオープントスを打っていました。高校の時もほぼ一人で打ってるような感じ。最高成績は都のベスト8でしたが、“中の中”くらいのレベルだったと思います。
- — そして、名門の筑波大学から声がかかって入学。
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高校を卒業した時202cmで、そんなでかい選手他にあまりいないですからね(笑)。大学では厳しい練習や上下関係の中に放り込まれたけど、根本に「バレーは楽しいものだ」というのがあった。それは小中高の間に形成されたものです。練習はどんどん苦しくなっていったけど、なんとなく自分は楽しみ方がわかってるんですよね。
- — バレーで生きていこうと思うようになったのはいつ頃ですか?
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大学3年の全日本インカレが終わったあたりかな。「通用するかな」と、その頃から少しずつ自信を持てるようになりました。大学からミドルブロッカーになって、1年から試合に出させてもらって優勝していたけど、甲斐(祐之、JT)さんや篠田(歩、東レ)さん、大久保(茂和、全日本女子コーチ)さんたち先輩がとにかくすごかったから、自分はおまけで入ってるだけ。出してもらってる感がすごく強かった。でも気づいたら、できなかったことができるようになっていた。当時監督だった都澤凡夫先生は、急にこれができるようになれとは言わずに、本当にちょっとずつハードルを高くしていってくれた。すごく細かい課題をくれて、それを登っていけばいいだけ、という感じでした。小中高も含めて、僕はずっと先生に恵まれてきているなと思います。
世界と対峙してぶつかった壁、そして楽しさ
- — そして大学からサンバーズへ。連覇中だったトップチームに入って、ギャップを感じませんでしたか?
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もちろんありました。でももう全日本に入っていたから、そちらで壁にぶつかることの方が多かったです。大学4年だった2002年のワールドリーグから全日本に行き始めたので。
- — 世界と戦って感じた壁とは?
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欧米のチームと初めて対戦した時は、「世界、スゲーッ!」って衝撃でした。自分くらいの身長の選手はゴロゴロいるし、しかも跳ぶしパワーもあって、とにかくすごかった。でも欧米のチームとやるのはすごく楽しかったです。通用しなかった時の方が楽しい。真下にドシャットをくらうと、“ゾクッ”とする(笑)。「うわっ、マジかよ!どうするん!?」って。じゃあどんなコンビだったら抜けるんだとか、次はどうしてやろうかって考えるから、やりがいがありました。
特に印象に残っているのがブラジルのセッターのリカルド・ガルシア。ブラジルと試合した時に、僕がコミットでブロックに跳んだら、違う所に上げられた。その後コミットしないでサイドに走っていたけど全然ダメ。だから一度、サイドに走るふりをしてコミットしたんです。でもサイドに上げられて、その時にリカルドが、自分の目を指さして「オレ見てるよ」ってジェスチャーしてきたんですよ。「マジかよっ!じゃどーすりゃいいんだよ」って(笑)。なんかいいでしょ?そういうやり取りがすごく面白いし、好きです。言葉は通じないけど、「ああ、同じ競技やってるんだなー」って感じがしますね。
- — その後リカルド選手にやり返す機会は?
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ないです。やられっぱなしです(苦笑)。
- — 02年に全日本デビューして以降、04年アテネ、08年北京、そして今年のロンドン五輪と三度オリンピックに挑戦してきました。それぞれの節目で、山村選手自身はどのように変化してきましたか?
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アテネの時は、何もわかっていませんでした。オリンピックに出ることの大変さや価値、それに、自分の気持ちもわかってなかった。本当にオリンピックに行きたいのかって言われたら、行くチャンスがあるから全日本に合流している、という感じで、勢いだけでやっていた気がします。でもアテネ五輪最終予選で負けて、「ああこんなに多くの人が注目している大会、期待される大会なんだ」と身をもって思い知らされた。すごくへこんで、そこから立ち直った時に、「オリンピックに行きたい」という思いがすごく強くなりました。そうして臨めたのが北京でした。北京五輪最終予選は、本当にガムシャラだったような気がします。行きたくてしょうがないから、試合中に上の人にすごく汚い言葉使ったり(苦笑)。
北京五輪の後、全日本が少し世代交代して若い選手が主体になって、僕らが上の方になった。「オリンピックに忘れ物をしてきた」と思っているので、もう一度ロンドン五輪に行きたかったし、今度は出ることが目標じゃなく、「オリンピックの舞台でいい仕事をする」ということを目標にやりたかったんですけど…。
- — 忘れ物というのは、北京五輪で勝てなかった、力を出しきれなかったということですか?
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普通にできなかったのが、本当にもったいなかったです。オリンピックではずっとフワッフワしていました。どんな試合をしたか、どこと試合をしたかもほとんど覚えてない。でもアメリカ対ブラジルの決勝がすごく面白くて、決勝行ってみたいなって…。
ロンドン五輪最終予選で勝てなかったというのはすごく責任を感じています。ただ、自分の中では出し切って負けたなという感じはします。4年後のことを考えたらパフォーマンスはたぶん落ちていくだろうから、もう最後かもしれないチャンスに、自分のプレーとしては後悔なく出し切ることはできたと思う。でも、チームとして結果が出なかったのはすごく残念です。やっぱり「行かなきゃいけない」じゃなくて、「行きたい」という気持ちの方が強くないといいプレーができない。今回は、「行かなきゃ」という気持ちの方が強かったのかなと思います。僕自身は、オリンピックを知らない子たちを連れていかなきゃいけない、みたいな責任感もありました。
5連覇後のサンバーズを支えてきたベテランが二度目の主将に
- — サンバーズでは、Vリーグ4連覇した02/03シーズンに内定選手として加わった時から活躍していますが、どちらかというと5連覇後のサンバーズを作ってきた中心選手というイメージがあります。
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当時(5連覇後)は、違った楽しみがありましたね。5連覇していたのは上の人たちの世代。オギ(荻野正二ヘッドコーチ)さん、(佐々木)太一さん、清水(雅之)さんたちや、ジルソンがいて、勝っているという感じでした。僕らからしてみたら、その人たちを追い抜いて、勝てば面白いじゃないですか。「オレらでも勝てるんだ」、「オレたちが新しい時代を作る」みたいな感じで。(栗原)圭介さんや坂本(雄一郎)さんと集まったら自然と、「絶対追い抜かしてやる」みたいな話になっていましたね(笑)。
- — 今の若い選手たちにもそういう気持ちでやってほしいと?
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そうですね。早く休ませてくれ(笑)。
- — 今年は二度目の主将に就任しました。
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主将だからこうしよう、とはあまり考えないようにしています。今パオロ監督が一生懸命指導して下さっているので、僕が何かやったらおかしくなる。一番、一生懸命、さぼらず練習するだけですね。ただ僕はイライラがすぐに顔に出るから、主将はどうかな(苦笑)。今の若い選手たちは気が優しいから、そういう顔を見ると、「うわ、なんか知らないけどキレてる」って、ファーッと引いちゃうんですよね。そうじゃなくて、ドーンとかかってきてほしいですね。
- — 最後に今シーズンの目標と、ファンの皆さんへのメッセージをお願いします。
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目標はV・プレミアリーグの決勝に行くことです。コートに立った時に最大限のパフォーマンスを出せる準備をして、妥協なくやれれば、どんどんいいチームになっていくと思います。ファンの皆さん、共にいっぱい楽しんで、いっぱい勝って、最後はおいしいお酒を飲めるように、お互い一生懸命頑張りましょう!