WHiSKY on the Web 製品紹介ウイスキーとやきものの出会い響35年 三代 徳田八十吉 作<耀彩瓶 碧陽>

九谷を革新し、世界の誰もがなし得なかった新しい工芸美の地平を拓いた現代の名工、三代徳田八十吉氏

人間国宝 三代徳田八十吉氏・略歴

昭和8年、二代徳田八十吉の長男として小松市に生まれる。本名正彦。3歳の頃より祖父・初代徳田八十吉と起居をともにし、初代から九谷焼の名品の数々を見せられ、解説をきかされて育った。20歳で家業に入り、初代徳田八十吉より九谷焼上絵釉薬の何たるかを学び、父・二代八十吉のもとで現代陶芸を習得。昭和42年、古九谷、吉田屋、粟生屋などの作品を展示した「古九谷古陶磁展」を企画した経験を契機として古九谷の研究に入り、「青手古九谷」の持つ釉薬の美しさを現代に生かす工夫を重ねる。昭和52年、第24回日本伝統工芸展出品作品「耀彩鉢」で「日本伝統工芸会総裁賞」を受賞。昭和58年、九谷釉薬の開発研究で実った独自の技芸を「耀彩」と命名。以後、旺盛な制作活動を続け、国内外での個展等により高い評価を受ける。昭和63年、三代徳田八十吉を襲名。平成9年、彩釉磁器にて「重要無形文化財(人間国宝)」に認定される。

徳田八十吉氏


九谷焼と徳田家三代

九谷焼は、加賀百万石文化の精華のひとつである。前田公率いる各地で沈金、友禅、象嵌、蒔絵、金箔などの優れた工芸品や、能楽、茶道をはじめとする生活文化が独自な花を咲かせてきた。

現代九谷焼の源流としては、加賀大聖寺藩の豪商、四代豊田(屋号吉田屋)伝右衛門が古九谷窯跡の隣に築いた吉田屋窯が有名で、青手古九谷様式の色絵陶磁を焼成。続いて吉田屋窯を継承した宮本屋宇右衛門が赤絵細密画(通称飯田屋)を完成させ、永楽、庄三とつづく。明治時代に入ると欧米の技術を導入して九谷でも大量生産の分業形式が始まった。

初代徳田八十吉は明治6年、染物屋の長男に生まれ、幼少の頃より日本画を学んだ。明治23年、17歳のとき松本佐平の「松雲堂」の徒弟となり、陶画工として研鑚を積む。佐平の父、松屋菊三郎は吉田屋窯の主工・粟生屋源右衛門の直弟子で、蓮台寺窯を開き、青手九谷の制作に力を注いだ名工であった。初代は古九谷(五彩)や吉田屋(四彩)の青手の美に魅せられ、古九谷磁器とその釉薬の研究に没頭、その再現をめざして古九谷写しの作品制作に情熱を傾けた。大正初期頃に自作が骨董界で古九谷として通用していることを知り、以後、誤解されぬよう作品に「八十吉」と書き入れることとした。それまで陶工(上絵師)は自らの名を入れぬ無印とするか、または九谷焼の証として「角福」(四角のなかに行書の福)を書き入れるのが習いであった。初代徳田八十吉は九谷における上絵釉薬の研究と調合の第一人者であり、自ら作った色で描き上げる画の妙味と完成度は九谷随一と賞賛されるに至る。昭和28年、到達した高度の技術によって「上絵付け(九谷)」で国の無形文化財に認定された。

その養嗣子・外次は、初代のもとで古典的な作品を作る一方、「写生」による氏独特の世界を創出し、現代九谷の名匠として高く評価された。特徴は巧みな自然描写の骨画きに色絵や金彩を施した美しい絵付けにある。若き日に東京美術学校(現東京芸大)校長・正木直彦や陶芸家・富本健吉の薫陶を受けた影響があったといえよう。昭和31年2月に物故した初代を継いで、5月、二代八十吉を襲名。日展審査委員、石川県文化財保護審議会委員などを歴任し、ブリュッセル万国博覧会に於いてグランプリ受賞、石川県指定無形文化財に認定され、後進の育成にも力を注ぐなど、その業績には多大なものがある。

二代八十吉の息子正彦が三代徳田八十吉氏である。氏は祖父と父の仕事を通じて、九谷の伝統を継承するとともに、両者が再興、発展させた現代九谷の技術をさらに革新し、「彩釉」で新境地を拓いて世界的な作家となっていった。氏の多大な功績が加わることで、今日、「九谷」の名は古美術や趣味の世界を脱して世界の「KUTANI」となり、現代アートの仲間入りをしたといっても過言ではない。