バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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レイルロード・ウォー

さらには東海道線の京都、大阪間に位置する現JR山崎駅は間近だ。輸送の利便性だけではない。ウイスキーが一般市民にまったく知られていない時代に早く広く世の中に流通させ認知度を高める必要があった。蒸溜所、ウイスキーという存在を知らしめることが重要である。

トラックなどない時代、国鉄山崎駅から蒸溜所へ大麦を積んだ牛車が長い列を成したという。そんな時代を経ていまの興隆があることを忘れてはならない。

日本初のモルトウイスキー蒸溜所が山崎であったことは祝福されるべきことであり、鳥井信治郎の慧眼は驚異と表現できるだろう。

 

話をアメリカに戻そう。この間、アメリカの蒸溜酒業界は変革期にあった。

東部では三角貿易(奴隷貿易)によって繁栄していたラム酒生産が1808年の奴隷貿易廃止により急速に衰え、ライウイスキーが蒸溜酒の主役となる。19世紀初頭、ペンシルベニア一帯だけでライウイスキー蒸溜所が5,000を超えていたといわれている。そこにケンタッキーのバーボンも加わっていくのだった。すると禁酒運動が盛んになる。

1851年にメイン州が禁酒州となると、すぐさま13州に広がり、56年には全国禁酒同盟が結成された。

奴隷解放政策には確固たる姿勢を貫いたリンカーンだったが、禁酒運動に関しては曖昧な態度を取りつづけたといわれている。

南北戦争時に北軍の将、グラントがバーボンを愛飲していた。禁酒運動家たちがそれをリンカーンに追求したところ、彼はこう返したという。

「わたしはグラントが飲んでいるバーボンのブランドを知りたい。それがわかれば、他の将軍にも同じものを贈ることができる」

つまり、バーボンを飲んだ将軍たちはグラントと同じように勇敢に戦いつづけるだろう、と彼は言ったのである。そして電信によって、ヴィクスバーグの戦いでグラントが勝利した知らせを聞くと、リンカーンは上等のバーボン1ケースをグラントに贈ったと伝えられている。これが「オールド・タブ」だったという説がある。

ウイスキーに理解を示し、鉄道時代の幕開けに影響を与えた大統領は南北戦争終結から間もなく、1865年に凶弾に倒れた。享年56。

ではリンカーンが幼少期を過ごしたケンタッキーの農場の名を冠したクラフトバーボン「ノブクリーク」をグラスに注ごう。偉大な先人たちの努力があったからこそ、いまこうして、力強さがありながら洗練されたバーボンを味わうことができる。当たり前に美味しいウイスキーが飲める喜びを噛み締めよう。

(第29回了)

for Bourbon Whisky Lovers