バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

レイルロード・ウォー

1861年にはじまった南北戦争。リンカーン大統領は南北の境界に位置する生まれ故郷のケンタッキー州を北軍の兵站拠点とし、鉄道と電信を見事に活用して勝利した。これによりケンタッキーは潤い、バーボンウイスキーはより広く知られるようになったのだが、それ以前に流通と情報伝達の重要性を見抜いていた一家がいる。

ビーム家。2代目デビッド・ビームは1830年代に産業革命の波が押し寄せた東部の発展を見つめながらバーボンの将来的成長を読み、最新設備を導入し、事業展開拡大をはかった。そして3代目となる息子とともに新ブランド開発を手がけた。

デビッド・ビームの亡くなる前年の1853年、「オールド・タブ」を発売。たちまち人気となるが、3代目のデビッド・M・ビームはこれをナショナルブランドへと高める道を拓く。

父の姿を観て育った彼は3年後の1856年、清冽で豊かな水源を確保でき、鉄道駅、電信局が近くにある場所に最新設備の蒸溜所を建設する。まさに先見の人である。

原料や製品はもちろん事業に関わるさまざまな物資の輸送には鉄道と蒸気船を巧みに活用。輸送効率のアップや取引先との交渉、その他の受発注に電信を役立てた。これにより南北戦争後は「オールド・タブ」の評価はより高まり、市場は大きく広がった。

余談だが、日本にモールス電信機が伝わったのは「オールド・タブ」発売の年、1853年。ペリーの黒船がもたらした。幕府の役人たちは驚き、興味の示し方は凄まじかったようだ。13代将軍、徳川家定に電信機が献上されたのは、日米和親条約が締結された翌54年のことになる。

その時の献上品の中には“1/4サイズの蒸気機関車”とともに“ウイスキー1樽”が含まれていた。ウイスキーの文字が日本の文献に登場する最初の記録とされている。

ビーム家の歩みは、ジャパニーズウイスキーの創始者、鳥井信治郎の姿につながる。1923年、京都郊外、山崎の地で日本初のモルトウイスキー蒸溜所建設に着手した信治郎だが、まず水と気候を重要視した。

いまでこそ山崎蒸溜所近くにある離宮八幡宮の湧き水が『離宮の水』として環境省認定“名水百選”に選ばれ、山崎は名水の地として名高い。山崎モルトの仕込み水の水脈は『離宮の水』と同じであるが、あの時代に水を見抜いたのだ。そしてモルトウイスキー樽熟成にふさわしい独特の湿潤な気候風土の地でもある。

*今回の連載内容は
第22回
「ジャーマン・アメリカン」
からのつづきです。

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