バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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ラジオ・デイズ

禁酒法撤廃後すぐさまバーボンウイスキー製造に着手し、アメリカ蒸溜業界を活性化させたのはビーム一族だった。今回のエッセイは、できるならば傍らにジムビーム&ジンジャーエールを飲みながらお楽しみいただきたい。

ジムビームのキャラメルやバニラ様の軽やかな甘さとジンジャーエールの甘辛さはとてもよく合う。レモンジュースやスライスを加えればバーボン・バックというカクテルになるが、余計な柑橘系の酸味は必要ない。どうかシンプルに爽やかな甘さを堪能いただきたい。

なぜこの組み合わせなのか。軽快にスウィングしていただきたい思いとともに、まずはビーム家に敬意を表して。そしてジンジャーエールは1890年に誕生しているが、世界的に広まったのは1930年代半ば過ぎからであり、今回語る時代とすべてがリンクするからである。日本でも太平洋戦争前夜の銀座のバーでジンジャーエール割りのカクテルが大人気だったという。では話をはじめよう。


1934年にはじまったラジオ番組にベニー・グッドマンのバンドはレギュラー出演した。番組名でありテーマ曲の『レッツ・ダンス』はウェーバーの『舞踏への勧誘』をもとに書かれたものだ。番組はたちまちにして全米で大評判となり、曲のヒットとともにダンス熱を高めるきっかけをつくった。

ベニー・グッドマンの人気は急上昇し、全米各地のダンスホール、ホテル、クラブから出演申し込みが殺到した。それまでダンスバンドといえばスウィート・ミュージックがほとんどだったのだが、彼の登場でイメージが一新され、ジャズバンドが社交ダンスのバンドを兼ねるようになる。

1930年代後半には“キング・オブ・スウィング”とまで呼ばれ、グッドマンのクラリネットを筆頭にバンドが一体となってスウィングした。その頃、グッドマンと人気を二分したのは「ムーンライト・セレナーデ」で有名な、爽やかで情緒たっぷりなムードにあふれたグレン・ミラーのバンドだった。

ラジオでチャンスをつかんだジャズマンをもう一人紹介する。1920年代半ば過ぎのことをデューク・エリントンはこう語っている。
“わたしがはじめてニューヨークに出てきたときのことだ。五番街の134丁目と135丁目の間にあったエドモンズという店の道路を隔てた反対側に、暇さえあれば立つようになっていた。すすりなくようなピアノの音色を聴くのが常だった。それは素晴らしいことだった”(『MUSIC IS MISTRESS』Duke Ellingtonより)

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