2012年8月
山田真一(音楽評論家)

昨年秋よりエグゼクティブ・ファカルティにジュゼッペ・サッバティーニを迎え、サントリーホール オペラ・アカデミーが新体制でスタートした。サッバティーニの日本での音楽指導は初めてということだが、イタリアではすでにジュゼッペ・ヴェルディ音楽院、ボローニャ歌劇場歌手養成所などで指導し、現在は母校のサンタ・チェッチーリア音楽院の声楽教授として教鞭を取っている。それだけに、有名テノールとして活躍したサッバティーニとしてだけでなく、彼なりの指導方法に基づいた長期間にわたるプログラムが特長となった(オペラ・アカデミーは、32歳以下の若手対象の「プリマヴェーラ」と、キャリアを持つ生徒対象の「プロフェッショナル」の二つコースがあるが、ここでは前者を扱う。尚、今回、プリマヴェーラは、オーディションにより選ばれた24名が当初受講。いずれも大学卒以上だった。プリマヴェーラの研修期間は2年間で、初年度は2011年9月〜13年6月)。
今回のオペラ・アカデミーは、2012年6月3日の「サントリーホール オペラ・アカデミー・コンサート」に向けて11年9月より行われた。サッバティーニが来日しての直接の指導は、11年9月、12年2月、5月と三期に分かれたが、その間をプロの日本人歌手がコーチング・ファカルティとして指導し、サッバティーニのプログラムによる練習を継続的に行うという内容である。その点で、より学校のコースに近いものだったが、受講者にとっては、自らのレッスンや歌の仕事と重なることもあり、その兼ね合いに苦労した者もいたようだ。逆にいえば、コーチング・ファカルティによるレッスンで、サッバティーニの出した課題を継続的にやっていないと、次のサッバティーニのレッスンでの課題をこなせないというハードルがある発展プログラムとなっていた。

- シレーネの練習
9月から1月は、9月にサッバティーニが紹介した基礎テクニックをマスターすることに重点が置かれた。特に、ここではサッバティーニが「シレーネ」と呼ぶ、ベルカントのための独自の発声方法をマスターすることが重要だった。シレーネは、ハミングに近い発声方法の練習だが、ほとんどの受講者はこれを初めて体験したようで、2月の第二回目のサッバティーニによるレッスンでは、「シレーネがまだできていない!」とサッバティーニが多くの受講者にやり直しを求める場面が多かった。
「発声と基礎練習」〜いかに、音を自然に響かせるか
サッバティーニが説く、プロとしてベルカントの発声をするための基本は、「いかに、音を自然に響かせるか」という点にある。「響かせるためには、喉に負担を掛けずに、頭蓋骨の前に音を響かせなければならない」というものだ。その理由は、「広い空間へ行くと、大きな声量を出すために、多くの人が喉に力を掛けてしまう。しかし、それでは声がもたず、長時間歌えず、また、客席にはきれいに聞こえないからだ」という。しかし、これは口で言うほど簡単でないのは、どの受講者も、サッバティーニから何度も、姿勢や声の響きの違いを指摘されていたことからも、明瞭だった。

時には、厳しい言葉で発声方法について指摘するサッバティーニだったが、彼自身も受講者の問題点をしっかり把握していたようだった。できない理由としては、普段狭い練習室で声を出しているので、「大きな空間での自分の声がわかっていない」からというもの。もう一つは、これは受講者自身の本アカデミーへの参加姿勢に関係することだったが、現在、日本での指導者と発声方法が違うことで、及び腰になっているということだ。特に後者に関しては、サッバティーニもその難しさを認識しており、「自分の先生にアカデミーへの受講について了解を取ってくるべきだ」というアドバイスもしていた。
それにしても、今回の受講者は、発声という基礎がいかに重要で、且つ細かい点から成り立っていることを改めて知ったのではないかと思う。サッバティーニによる指導は実にきめ細かい。例えば、息を継続して出すことの重要性を説く。しかし、それは息継ぎの問題ではなく、いかに音を保ち、声の響きを継続するか、という点にあると指摘する。「喉を使ってはダメだ。喉の柔らかい場所は声が響かない」、「音を支えるということは、力を入れるのではなく、音を保つことだ。喉に力をいれてはいけない」、「力をいれると息が切れる、息を無駄に失ってはならない」というようなことを一人、一人に指導していく。
「響きをマスターする」〜発声から一段階高い技術へ
受講者には、自分の順番でないときも参加するように要請しているので、学ぶことも多いが、逆に、上手く声を出せる受講者を真似ようと、形から入ってしまう例もある。そんな時、サッバティーニは、「人により口の形が違うので、口の形はそれほど気にするな。重要なのは響きをマスターすること。口の表面を動かしても変わらない。美しく歌おうとしなくても形が良ければ声は美しく響く」と説明する。ここで重要なのは、共鳴を意識するために「マスク(マスケラ)」に声を集めることにある。マスクとは、顔という意味で、声楽では特に頬から上の部分を指す。

- サッバティーニの具体的なアドバイスが続く
サッバティーニの指摘は極めて具体的だ。まず、「音を出したら口の形は忘れるように」、「軟口蓋は口を大きくしても上がらない」ということから、ピアニッシモでは「小さい音は腹を使う」、「ピアニッシモになっても、倍音が聞こえるように、これが歌に入るということ」、「準備のとき口のスペースを用意しておくこと」。高い音では、「高くしていくと喉が絞まるのは形が良くない証拠!」と続く。
高い音に関して日本人は苦労しがちなので重要なアドバイスが多い。高い音を出すために、力んだり、下の音を出していた時の口と喉の形のままで、力で押してしまう者が多いからだ。これについて、サッバティーニは、「高い音へ跳躍するときには、その準備をすることが重要。特に、口の形(ポジションの取り方)に注意しなければならない。跳躍しながらディミヌエンドするつもりで、準備のとき響きを調整する必要がある。そうすることで、顎の固さを取ることができ、引っ張らずに済む」、「口の形を変えても音色を変えないように注意しなければならない」と説明する。

レガートやグリッサンドは、一段階高い技術で、そのために特化した練習が必要と説く。これはシレーネから始めてその形を忘れないようにする。グリッサンドでは、ビブラートを掛けない。なぜなら、ビブラートすると同時にクレッシェンドしがちになるためだという。ではどうするのか。サッバティーニは、「音を喉ではなく、腹から出さねばならない。しかし、それはぶつけるのでは無く押し出すように」と指導する。
サッバティーニの指導は、イタリア人らしく、熱く、時に派手な表現も入るが、腹を使って、というような表現では、「猫ではなく、虎のごとく腹の奥そこから出す!」と叫んで、自分で虎の真似をして、声を出して、受講者の笑いを誘うこともあった。
「歌の表現」〜イタリア古典歌曲を学ぶ
さて、歌のレパートリーの方だが、サッバティーニがイタリアの正しいベルカント唱法をしっかり覚えさせたいということで、これは「イタリア古典歌曲」となった。具体的には、ペルゴレージ、チェスティ、パイジェッロ、カルダーラ、デュランテ等、バロックから古典までのイタリア人作曲家や、ヘンデルなどイタリア人以外のイタリア語によるバロック作品が含められた。2月の時点では、受講者が複数の歌を歌い、その後、コーチング・ファカルティ等と相談して、それぞれ違う歌を歌うように調整していく方法が取られた。

- イタリア古典歌曲のレッスン
イタリア語の学習は課題ではなかったが、ベルカントを歌う、イタリアの曲をレパートリーにするという点では、サッバティーニは、やはり「イタリア語の勉強は必要」と強調した。発音だけ真似しても、歌詞の意味を理解しなければ、到底歌は歌えないというのは、どんな言語であっても共通している。中には、サッバティーニとイタリア語で簡単にやりとりができる受講者も居たが、今回それは少数に留まった。
歌に関しては、やはり歌詞について、うるさい指導が入った。例えば、ある小節に複数の動詞がある場合、どの動詞を強調するのか。横並びはあり得ない。「強調する動詞によって、歌の内容がより良く伝わる」、「歌の状況をよく考えて欲しい。誰が歌っているのか、その人は悲しんでいるのか、喜んでいるのか、なぜこの人物はこの歌を歌うのか」、「歌詞の表面的な言葉がその人物の気持ちとは限らない」というように、次々重要なコメントがサッバティーニから飛び出す。また、イタリア歌曲には、表現の基本的要素として、神や聖母などが頻繁に現れるが、それらがどのようなものか考えて、悲しみ、苦しみ、愛情表現を歌にする必要があると詳しく説明した。
「技術を磨く」〜歌の完成度を上げるためのアドバイス
サッバティーニ三回目の指導である5月は、受講者がそれまでにコーチング・ファカルティと曲を決めて準備をしてきたこともあり、2月に較べるとかなり進歩が見られる受講者もいた。もちろん、それは単に、歌を繰り返し練習したというより、サッバティーニが提示する発声方法、口の形や、音の当て方に基づいて、歌えるようになったという意味においてだ。
この段階に来ると、サッバティーニの指導は、それぞれの歌の完成度を上げるために、発音に対して、細かい注意をすることが多くなった。特に母音について図を使って説明するなど、それぞれの母音を発声するときの口や喉の開け方に対する詳しい説明がされた。また、イタリア歌曲には欠かせないトリル、日本語にはないイタリア語特有の濁音など、まさにプロとして重要な技術を次々と指導した。
そして、6月3日のコンサートは、当初、プリマヴェーラは選抜者のみという予定だったが、5月の時点で継続者が15名ということもあり、厳しいサッバティーニ指導に残った受講生全員が出演することになった。コンサートは、ピアノ、ハープシコード、オルガンを伴奏として、テンポや歌い方に関してサッバティーニの細かい指示を実践するため、客席後方からサッバティーニ自身が指揮するという形で進められた。そのかいもあって、一般の聴衆からも何度も大きい拍手が送られた。また、客席から見て、サッバティーニの発声法を実行しているかどうか、顔の形から分かるほどの受講者がいたことも大きな成果だっただろう。本場前にサッバティーニから厳しいダメだしを受けた者も何人かいたが、当日はどの受講生も一定以上の水準で歌うことができ、サッバティーニも終演後、ホッとしていたようだった。厳しいながらも、時には笑わせ、大胆な比喩で受講者を引き込んだサッバティーニと受講者の達成感ある表情が終演後印象に残ったコンサートとなった。