寛永の雅
江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽

2018年2月14日(水)~4月8日(日)

※作品保護のため、会期中展示替を行います。

第1章 新時代への胎動―寛永のサロン

元和元年(1615)、江戸幕府は政権を確立すると、朝廷に対してさまざまな働きかけを強めます。

そのなかで、元和6年(1620)の二代将軍・徳川秀忠の娘、東福門院(とうふくもんいん・1607~78)入内などの融和政策を通した幕府の莫大な経済的援助は、京都を中心とする寛永文化を開花させる大きな要因になりました。

このような当時の状況を背景に、多くの文化人たちはサロンを形成し、それが鎖のように連なって公家、武家、町衆、文人といった身分を超えた交流がなされていました。そして、このサロンを通した交流のなかで、新たな時代に適応した美的感覚が醸成され、寛永文化が育まれていったのです。

ここでは寛永文化の成立期にあたる17世紀初頭、慶長・元和期から寛永初めにかけての文化動向を概観します。



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東福門院入内図屛風 六曲一双 江戸時代 17世紀 徳川美術館
©徳川美術館イメージアーカイブ/DNPartcom

第2章 古典復興―後水尾院と宮廷文化

後水尾院(1596~1680)は、その長い生涯のなかで朝廷と幕府の関係に配慮しつつ、宮廷文化の再興に力を注ぎ、寛永文化の中心人物として活動しました。

なかでも幕府が慶長20年(1615)に公布した「禁中並公家中諸法度(きんちゅうならびにくげちゅうしょはっと)」によって、和歌が宮廷を象徴する芸能に位置づけられたことを受け、後水尾院は率先して和歌をはじめとする古典文学の研究を進め、宮廷周辺では古典復興の機運が高まります。

この古典復興と深く関わった当時の宮廷歌壇では、素直でなだらかな言葉の流れや、わかりやすい平明な趣向が重視されており、その美意識は和歌のみならず、宮廷文化のさまざまな分野にも向けられました。例えば宮廷周辺で制作された歌仙絵や物語絵に見られる、親しみやすい優美な雰囲気にその一端をうかがうことができるでしょう。そして、その作品の多くは武家が受容したものであることが示すように、宮廷の外にも「雅」の世界の享受者は広まっていったのです。

ここでは寛永文化の大きな源泉となった後水尾院と宮廷文化の世界をご覧いただきます。

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源氏物語絵巻 住吉具慶 五巻のうち第三巻 江戸時代 17世紀 MIHO MUSEUM

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冠形大耳付水指 修学院焼 一口 江戸時代 17世紀 滴翠美術館

第3章 新たなる美意識


Ⅰ小堀遠州



小堀遠州(1579~1647)は寛永文化を代表する茶人であるとともに、伏見奉行を長く務め、多くの建築造作も指揮した江戸幕府の有能な官僚でもありました。

そうした遠州は、幕府によってもたらされた泰平の世にふさわしい、武家の教養としての「大名茶」を目指すべく、さまざまな新機軸を打ち出しました。なかでも、和歌をはじめとする宮廷文化の「雅」を茶の湯に導入したことは、藤原定家に私淑し、御所造営にも関わった遠州ならではのこととして注目されます。

さらに遠州は宮廷文化のほか、東山文化的な唐物、桃山文化的な侘び、そして最新の中国、朝鮮、ヨーロッパの作品にいたるまで、新旧さまざまな道具を自らの美意識で選別し、新たな茶の湯の世界を切り開きます。それは優美で均整のとれた形や明るい色彩を特徴とするもので、後に「きれい寂(さ)び」と評されるようになりました。

ここでは遠州が茶会で実際に使用した茶道具や、記録から想定されるものも含めて、遠州の「きれい寂び」の世界をご紹介します。

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小井戸茶碗 銘 六地蔵 一口 朝鮮時代 16世紀 泉屋博古館分館

Ⅱ金森宗和と仁清



色絵の技法を大成し、京焼随一の名工として名高い野々村仁清(生没年不詳)は、正保4年(1647)ごろ御室仁和寺(おむろにんなじ)の門前に窯を開き、御室窯の活動を開始します。そして、この開窯にあたって指導者的な位置にあったのが、遠州と同じく寛永期に活躍した茶人、金森宗和(1584~1656)です。

宗和は飛騨高山城主の金森家に生まれ、後に茶人として京都で活動しました。宗和は武家や町人をはじめとして、公家とも交流を持ち、彼らに自身のプロデュースした御室焼を斡旋していました。その「宗和好み」をたどってみると、意外なことに、落ち着いた色調と、独創的かつ洗練された造形を持つ作品群に行きつきます。

それらはまさに「きれい寂び」のような寛永の美意識を継承・発展させたものと言っていいでしょう。

その後、宗和の死没を境に御室窯は多彩な色絵を中心とする窯へと展開します。今日、仁清を代表する華麗な色絵陶器は、実は宗和の指導を離れた後に江戸や地方の大名の好みによって作られたものが多いのです。

ここでは初期の「宗和好み」の作品から華麗な色絵陶器にいたるまで、仁清の多様な作例をご覧いただきます。

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白釉円孔透鉢 野々村仁清 一口 江戸時代 17世紀 MIHO MUSEUM

Ⅲ狩野探幽



狩野探幽(1602~74)は、狩野派の絵師である狩野孝信(かのうたかのぶ)の長男として京都に生まれました。幼くしてその画力を徳川家康・秀忠に認められ、本拠地を江戸に移し、幕府の御用絵師として活躍します。徳川政権による新たな時代にふさわしい美を探究したその生涯は、まさに寛永文化の展開に重なるものでした。

今日、探幽が巨匠とされる理由の一つは、豪壮な桃山様式にかわって、大きな余白と淡彩を主体とする独自の様式を確立し、狩野派の画風を一変させたことにあります。それは幕府の後ろ盾もあって、江戸時代を通じてあらゆる流派に影響を与えました。

一方で、探幽の絵画は後水尾院に称賛されるなど、宮廷文化からも評価されるものであったことは見逃せません。さらにその優美で平明な画趣は、探幽と交流のあった小堀遠州の「きれい寂び」に通じるものとも言えるでしょう。すなわち、探幽の新様式は、武家や公家といった枠組みを越えて共有されていた、最先端の「時代の美」だったのです。

ここでは、探幽の寛永期から晩年に至るまでの画業を振り返り、時代が求めた新しい美を追体験していただきます。

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桐鳳凰図屛風 狩野探幽 六曲一双 江戸時代 17世紀 サントリー美術館

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