秋田蘭画の謎をひもとく10のトリビア秋田蘭画の謎をひもとく10のトリビア

サントリー美術館では、2016年11月16日(水)から2017年1月9日(月・祝)まで、「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」展を開催します。謎の多い秋田蘭画には、興味深いエピソードがたくさん!ここではその一部をご紹介します。

「秋田蘭画」とは?

江戸時代半ばの18世紀後半、秋田藩の若き武士たちによって、西洋と東洋の美が結びついた珠玉の絵画が描かれました。
秋田藩士が中心に描いた阿陀風(おらんだふう)の絵」ゆえに現在「秋田蘭画」と呼ばれています。

展覧会概要はこちら

  • (1)秋田藩角館の武士:小田野直武
  • (2)キーワードは「蘭」
  • (3)直武×源内
  • (3)直武×源内
  • (4)異例の大抜擢
  • (5)源内と直武をつなげたキーパーソン
  • (6)秋田蘭画のもうひとつのルーツ
  • (7)小田野直武の代表作「不忍池図」
  • (8)東西の美の融合
  • (9)江戸に出てからたった7年
  • (10)秋田蘭画・美の継承

執筆:鮫島圭代(美術ライター)

(1)秋田藩角館の武士:小田野直武(1)秋田藩角館の武士:小田野直武

小田野直武

直武は、いま大注目の江戸時代の絵師だよ!日本、中国、西洋の絵画の伝統を結びつけ、新しい美を切り開いたんだ!直武は、いま大注目の江戸時代の絵師だよ!日本、中国、西洋の絵画の伝統を結びつけ、新しい美を切り開いたんだ!

江戸絵画のニュー・ヒーローここにあり!江戸絵画のニュー・ヒーローここにあり!

みちのくの小京都ともいわれる美しい町、角館(かくのだて)。江戸時代半ば、この町から才能あふれる絵師が世に出ました。その名は小田野直武(おだのなおたけ)。

直武は寛延2年(1749年)、秋田藩角館城代に仕えていた武士の子として誕生します。子供のころから絵が得意だったといい、上の画像は、数え年17歳の時に依頼をうけて制作した絵馬なんです!大迫力で、見事なデッサン力がわかります。秋田の小さな町に暮らしていたこの若き侍が、日本絵画史上で高い評価を得ている秋田蘭画の中心的な描き手へと羽ばたいていったのです。

展覧会ではココにも注目!展覧会ではココにも注目!

小田野直武は10代の頃から昔の絵をたくさん模写して腕を磨き、江戸に出てから秋田蘭画の数々を描きました。直武の画力が結晶した写生帖が今に伝わっています。会場でぜひご覧ください。
※展示期間は写生帖のページごとに異なります。

掲載作品

大威徳明王像図
小田野直武筆 一面
明和2年(1765年)
秋田・大威徳神社

展示期間:11/16〜12/12

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(2)キーワードは「蘭」(2)キーワードは「蘭」

江戸中期、オランダと日本の関係とは?

直武が生きたのはどんな時代だったのかな?「秋田蘭画」誕生の秘密を探ろう!直武が生きたのはどんな時代だったのかな?「秋田蘭画」誕生の秘密を探ろう!

「秋田蘭画」の「蘭」ってそもそもなに?「秋田蘭画」の「蘭」ってそもそもなに?

「秋田蘭画」とは、「秋田藩士が描いた阿蘭陀風(おらんだふう)の絵画」という意味です。

18世紀の世界は大航海時代を経てグローバル化が進んでいた時代です。日本はキリスト教が禁じられ、いわゆる鎖国の状態でしたが、長崎を通じて、オランダや中国との貿易が行われていました。
徳川幕府8代将軍・吉宗(よしむね)は享保5年(1720年)、漢訳された西洋の書物の輸入をゆるします。やがて西洋の学問や文化を研究する「蘭学」が盛んになるのです。

将軍吉宗によって本物の油絵が輸入されたことも、日本美術における大きな出来事でした。海を越えて届いたのは、ファン・ロイエンという画家の作品です。上の画像は、その絵を洋風画家の石川兄弟が模写したもの。

ファン・ロイエンの原画は、江戸・本所にあった五百羅漢寺でみることができたといわれます。本展覧会の主人公・小田野直武も、そのリアルな描写に衝撃を受けたかもしれません。

掲載作品

ファン・ロイエン筆花鳥図模写
石川大浪・孟高筆、大槻玄沢賛
一幅 寛政8年(1796年)賛
秋田県立近代美術館

展示期間:11/16〜12/12

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(3)直武×源内(3)直武×源内

2人が出会い、運命の歯車がまわりだす

水辺の広がりは、遠くのものを小さく描く「遠近法」!木の幹は、影をつけて立体感を出す「陰影法」!西洋の銅版画などから学んだ技を駆使したんだよ。水辺の広がりは、遠くのものを小さく描く「遠近法」!木の幹は、影をつけて立体感を出す「陰影法」!西洋の銅版画などから学んだ技を駆使したんだよ。

平賀源内が惚れ込んだ若き画才平賀源内が惚れ込んだ若き画才

江戸時代中期の本草学者・平賀源内は、劇作・発明などマルチな才能で活躍し、「日本のダ・ヴィンチ」ともいわれます。源内は、グローバル化する世界に対応するため、『舶来品を参考に国内製品を作らねば!そのためにはまず資源を把握しよう!』と考え、日本各地を巡りました。そして安永2年(1773年)7月、鉱山開発のため秋田藩に招かれます。このとき、西洋文化に詳しい源内と、若き絵師・小田野直武の運命が交差します。数え年で源内46歳、直武25歳のことでした。

2人の出会いについて詳しくはわかっていませんが、角館に滞在していた源内が直武へ西洋画法を教えたという伝承も残っています。

源内が江戸に帰ったあと、直武は秋田藩から命じられ、突如として江戸に行くことに。江戸に着いた直武は、源内の家に出入りしたようです。西洋の書物や珍しいものに囲まれた、時代の先を行く雰囲気。そんな環境で、洋書の挿絵や銅版画を通じて西洋画の技法を学び、秋田蘭画を生み出すことになります。

展覧会ではココにも注目!展覧会ではココにも注目!

直武が描いた秋田蘭画の傑作です。生き生きとした鷺(さぎ)の姿が描かれており、見事な出来栄えです。おや、鷺のくちばしの左側に、なにやら小さいものが!?鷺が狙う虫のようにも見えますが、じつは…?

掲載作品

鷺図 
小田野直武筆 
一幅 江戸時代 18世紀
歸空庵

展示期間:12/14〜1/9

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(4)異例の大抜擢(4)異例の大抜擢

『解体新書』の挿絵

これは『解体新書』の表紙。みなさん見覚えがあるのでは?これは『解体新書』の表紙。みなさん見覚えがあるのでは?

医学史にきらめく名著をめぐる謎医学史にきらめく名著をめぐる謎

『解体新書』の絵師、それが小田野直武です。
直武が江戸に来る4年ほど前のこと。西洋の学問=蘭学への関心が高まるなか、平賀源内の知人で蘭学者の杉田玄白らは、西洋の医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳を決意します。そうして完成したのが、日本初の西洋医学書の翻訳書『解体新書』です。その重要な挿絵を、江戸に出てまもない直武が担当することになりました。

初の大仕事となった『解体新書』の挿絵。西洋の医学書に薄紙を重ねて、細い面相筆で写し取ったといわれます。直武の下絵に基づき木版画がつくられ、製本されました。
表紙は、スペイン人の医者・ワルエルダが書いた『人体解剖図説』をもとにしています。人物の手の位置を変えて陰部が隠れるポーズにしたり、オランダ語を漢字に変えたりと、アレンジもしています。

『解体新書』の刊行は直武が江戸に出て約8ヵ月後のこと。直武の画力の高さには驚くばかりです。

掲載作品

『解体新書』(部分)
杉田玄白ら訳、小田野直武画 一冊(序図) 
安永3年(1774年)
国立大学法人東京医科歯科大学図書館

展示期間:全期間展示

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(5)源内と直武をつなげたキーパーソン(5)源内と直武をつなげたキーパーソン

秋田のお殿さま 佐竹曙山

直武と共に「秋田蘭画」を発展させたんだ。直武と共に「秋田蘭画」を発展させたんだ。

小田野直武の運命を左右した若きお殿さま小田野直武の運命を左右した若きお殿さま

赤い羽が鮮やかなのはインコ!この絵を描いたのは、小田野直武を平賀源内のもとへ派遣した秋田藩のお殿さま、佐竹曙山(さたけしょざん)です。曙山は西洋から入ってきた学問を愛好し、直武と共に秋田蘭画の描き手となりました。また、日本初の西洋画論を執筆し、西洋の絵具に関する画材の記録も残しています。

曙山のような西洋文化や博物学に熱を上げた殿さまは全国各地におり、大名たちはお抱えの絵師に動植物などを描かせ、博物図譜を作らせていました。曙山もまた美しい図譜を作っています。ご覧の赤いインコも、曙山の博物図譜にも描かれているモチーフです。

展覧会ではココにも注目!展覧会ではココにも注目!

曙山の作品ではサインの下にある印にもご注目ください。実はオランダ語のハンコで、「曙山描く」という意味のようです。曙山はほかにもオランダ語のハンコを使っており、職人にハンコの完成を催促する手紙も残っています。

掲載作品

重要文化財 松に唐鳥図 
佐竹曙山筆 
一幅 江戸時代 18世紀
個人蔵

展示期間:11/16〜12/12

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(6)秋田蘭画のもうひとつのルーツ(6)秋田蘭画のもうひとつのルーツ

伊藤若冲も影響を受けた南蘋派

長崎には、中国やオランダの影響を受けたいろんな画派があったんだ。当時の長崎は、新しいアートのゆりかごだったんだね!長崎には、中国やオランダの影響を受けたいろんな画派があったんだ。当時の長崎は、新しいアートのゆりかごだったんだね!

江戸時代、最新の海外文化は長崎にあり!江戸時代、最新の海外文化は長崎にあり!

享保16年(1731年)、中国から一人の画家が派遣されてきました。彼の名は、沈南蘋(しんなんぴん)。おめでたいモチーフをふんだんに盛り込み、濃密な色づかいでリアルに描いたその画風は「南蘋派(なんぴんは)」と呼ばれて全国に広まります。小田野直武と同世代の京都の画家たち、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)や与謝蕪村(よさぶそん)もその影響を受けました。

直武が江戸に滞在した安永年間は、南蘋派が大流行していた時期でした。直武は平賀源内のネットワークを通じ、江戸に南蘋派を広めた宋紫石(そうしせき)と知り合い、南蘋派の画法を学んだようです。この絵の牡丹は、中国で古くから「富貴」を象徴するおめでたい画題。枝がS字型に伸びる優雅な構図も南蘋派の絵によく見られます。

そこに遠くの景色を描き加えるのは、西洋画の遠近法を学んだ直武ならでは。本展覧会には、南蘋派の作品も展示されるので、ぜひ画風を見比べてみてください。

掲載作品

岩に牡丹図 
小田野直武筆 
一幅 江戸時代 18世紀 
歸空庵

展示期間:12/7〜1/9

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(7)小田野直武の代表作「不忍池図」(7)小田野直武の代表作「不忍池図」

絵にかくされた5つのひみつ

秋田蘭画の魅力を知るには、まずはこの作品を見ていただきたい! 直武の代表作だよ!秋田蘭画の魅力を知るには、まずはこの作品を見ていただきたい! 直武の代表作だよ!

日本、東洋、西洋の美を結んだ秋田蘭画の傑作日本、東洋、西洋の美を結んだ秋田蘭画の傑作

舞台は江戸の名所、上野の不忍池(しのばずのいけ)。直武の代表作といわれる謎多き名作です。
ここではぜひ注目していただきたいひみつの鑑賞ポイントを5つご紹介します!

第1のポイントは、複数の視点があること。この絵と同じ視点で池を見ると、実際には植木鉢の土は見えないはずです。池は水平方向から、植木鉢は上からと、複数の視点を一枚の絵にまとめています。写実的でありながら、編集性も感じられます。

第2のポイントは、大きなモチーフが画面右にまとめられ、左に大きな余白があること。非対称性(アシンメトリー)に美を感じる日本的な感性による構図です。

第3のポイントは、手前を極端に大きく描き、遠くの景色があること。秋田蘭画によく見られる奇抜な構図ですが、全体的に見事にまとまっています。

第4のポイントは、季節! ピンクと白の花は初夏に咲く芍薬(しゃくやく)ですが、オレンジのキンセンカは春の花。一枚の絵に複数の季節が混在しているのです。

第5のポイントは、植木鉢の花が描かれていること。フランス語で静物画を「nature morte(死んでいる自然)」というように、西洋の絵に描かれる花は切り花が多いのですが、直武は、切り花でなく生きた花を鉢に入れています。

展覧会ではココにも注目!展覧会ではココにも注目!

「不忍池図」は、現存する秋田蘭画のなかで最も大きい作品です。秋田藩主・佐竹家の娘の結婚祝いとして描かれたとする説があります。芍薬は薬草なので、健康を祈る意味を込めたのでしょうか。また、江戸の秋田藩邸につくられた楼閣のために描かれたとする研究もあります。

掲載作品

重要文化財 不忍池図
小田野直武筆 
一面 江戸時代 18世紀
秋田県立近代美術館

展示期間:11/16〜12/12

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(8)東西の美の融合(8)東西の美の融合

「唐太宗・花鳥山水図」

さまざまな画法を学んだ直武ならではの表現!3幅の掛け軸に表現されている、東洋や西洋の美の融合をご堪能あれ。さまざまな画法を学んだ直武ならではの表現!3幅の掛け軸に表現されている、東洋や西洋の美の融合をご堪能あれ。

直武が創りあげた斬新な江戸絵画直武が創りあげた斬新な江戸絵画

秋田蘭画は、何が画期的だったのでしょうか?
それは、一つの絵の中に、東洋や西洋の要素が融合していることです。

「唐太宗・花鳥山水図」でいえば…

「東洋」の要素は、描かれているモチーフ。唐太宗(とうたいそう)という中国の名君です。「故事人物画」というジャンルに含まれるポピュラーな画題です。そして、左右の花や鳥の描き方は、中国から日本に伝わった南蘋派のスタイルで、掛軸という形式も東洋の伝統です。

「西洋」の要素は、室内の奥行き表現や、遠景をぼやかせるなどの「遠近法」、そして影をつけて立体感を出す「陰影法」です。さらに小田野直武は、油絵風の質感を出そうとしていたようです。

展覧会ではココにも注目!展覧会ではココにも注目!

唐太宗の左手に乗っているのは、イナゴ! 伝説によれば、唐太宗はイナゴの大発生で農作物が被害を受けたとき、イナゴを飲みこんで被害を抑えたのだとか。その名君ぶりを讃えるモチーフとして描かれています。

掲載作品

重要文化財 唐太宗・花鳥山水図 
小田野直武筆 
三幅 江戸時代 18世紀
秋田県立近代美術館

展示期間:12/14〜1/9

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(9)江戸に出てからたった7年(9)江戸に出てからたった7年

直武の死は謎だらけ!

主要人物がつぎつぎに世を去り…。秋田蘭画の歴史は、まるでミステリー小説のよう!主要人物がつぎつぎに世を去り…。秋田蘭画の歴史は、まるでミステリー小説のよう!

日本の風景を描いた、直武の晩年作日本の風景を描いた、直武の晩年作

江戸に出て、独自の美を切り開いた小田野直武。
しかし、安永8年(1779年)、直武は突然謹慎を命じられ、故郷・角館に帰ることに。理由は謎につつまれています。同じ頃、平賀源内が殺人罪を問われて獄死していました。

翌年、故郷で謹慎中だった直武は数え年32歳の若さで他界しました。もともと病弱だったともいわれますが、死因ははっきりとはわかっていないのです。佐竹曙山も直武の死から5年後、38歳で亡くなります。こうして、平賀源内、小田野直武、佐竹曙山という3人の主要人物が相次いで世を去り、「秋田蘭画」に再び光があてられるようになるのは、20世紀以降になります。

ご紹介している「日本風景図」は、直武晩年の作といわれます。右は江ノ島、左は神奈川の金沢八景です。時間が止まったような静謐な美しさは、直武芸術の最大の魅力。狩野派、西洋画法、南蘋派を身につけたすえに到達した画業の集大成を、ぜひ会場でご覧ください!

展覧会ではココにも注目!展覧会ではココにも注目!

直武の作品は、小さなモチーフ探しも楽しい!この絵には、散策する人々、馬や鳥が描かれています。当時のオランダの風景画には、遠くの空を舞う鳥が描かれることが多かったので、直武は自分の絵にも取り入れたのでしょう。鳥のおかげで、大空の広がりが感じられますね。

掲載作品

日本風景図 
小田野直武筆 
二幅 江戸時代 18世紀 
三重・照源寺

展示期間:全期間展示

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(10)秋田蘭画・美の継承(10)秋田蘭画・美の継承

司馬江漢 そして広重、ゴッホへ

江漢の洋風画には、秋田蘭画の精神が宿っているんだ。江漢の洋風画には、秋田蘭画の精神が宿っているんだ。

江戸の洋風画家・司馬江漢江戸の洋風画家・司馬江漢

小田野直武に学んだといわれる絵師が司馬江漢(しばこうかん)です。
ご覧の作品は、表裏に油絵が描かれた衝立で、画題は直武の「日本風景図」と同じ江ノ島と金沢八景です。

江漢は平賀源内らと交流し、鈴木春信から浮世絵を、宋紫石から南蘋派を学び、そして小田野直武からも絵を習ったといわれます。日本で初めて銅版画を制作し、さらに、油絵にも取り組んで、新たなジャンルを切り開きました。また、佐竹曙山が書いた西洋画論を継承して新たに画論を執筆し、高橋由一ら明治初期の洋画家にも影響を与えました。

前景を拡大した秋田蘭画の斬新な構図は、江戸後期の葛飾北斎、歌川広重の浮世絵にも見られます。19世紀後半、浮世絵はヨーロッパに衝撃を与え、ゴッホも広重の浮世絵を模写しています。秋田蘭画や浮世絵に流れる日本美術の精神は、海を越えて受け継がれていったともいわれています。

展覧会ではココにも注目!展覧会ではココにも注目!

日本で初めて銅版画という新しいジャンルに挑戦した司馬江漢。本展覧会では江漢の銅版画も展示されます。
ぜひ会場で探してみてください。

掲載作品

江ノ島稚児淵眺望・金沢能見堂眺望図衝立 
司馬江漢筆 
一基 寛政年間(1789〜1801年)
仙台市博物館

展示期間:全期間展示(場面替えあり)

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