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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2015年度

宮城県内における昭和三陸津波後の高台移転地(「復興地」)に関する研究

東京大学生産技術研究所助教
岡村 健太郎

研究の動機
 津波常襲地域である三陸沿岸は、近代以降、明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ地震津波、東日本大震災と、4度の大きな津波災害を経験している。なかでも、昭和三陸津波は、被害規模こそ限定的であるが、政府による大規模な復興計画が立案・実施された最初期の災害として、非常に重要な災害と位置付けられる。筆者による研究を含め既往研究は、岩手県における昭和三陸津波後の災害復興の実態についてある程度明らかにしてきた。しかし、宮城県における昭和三陸津波後の災害復興の実態については既往研究も少なく詳細は不明であった。

目的と意義
 本研究においては、宮城県内において政府による高台移転地(以下「復興地」)が計画された60集落を対象として災害復興の全体像を、さらにそのなかでも東日本大震災による被害を免れた集落(相川田ノ入集落)を対象とし災害復興の具体像を明らかにすることを目的とする。
 単に歴史研究として歴史的事実の解明を目指すのみならず、昭和三陸津波後の復興地における、東日本大震災の被災等の観点から評価し、高台移転を行う上での具体的な要点を引き出すことに、現代的意義があると考えている。  
 

研究成果・知見
 復興地造成のための事業を所管した内務省の報告書によれば、宮城県内15町村60集落にて801戸分の宅地が計画された。それらは、それらは、津波発生翌年の昭和9年3月末までにすべて竣工予定と記載されている。しかし、実際にどの程度、どこで実現したのか、すべての集落について明記されているわけではない。
 上記60集落は個別に移転を行った「個別移転」集落と、集団でまとまった場所に移転を行った「集団移転」集落に分類される。前者については、個別の位置を特定することは非常に困難であるためサンプル調査とし、後者については悉皆的に資料調査および現地調査を行った。
 その結果、集団移転の11集落のうち、実際に計画が実現したことを確認できたのは宿浦・相川田ノ入・谷川・石濱(女川)・船戸・雄勝・名振の7集落であった。小網倉・塚濱・小屋取については正確な位置や規模を特定するには至らなかった。小鯖については個別的な移転が行われたことを、船越については移転が実現しなかったことを確認した。また、個別移転については、大谷および田ノ浦において個別移転が実現したことを確認したが、鮪立・港・石濱(歌津村)については正確な位置や規模を特定するには至らなかった。
 そして集団移転が実現した7集落のうち、東日本大震災の被害を免れたのは、唯一相川田ノ入集落のみであった。そこで、同集落については、現地における詳細な聞き取り調査および資料調査を行った。その結果、震災前83戸あった住宅のうち43戸が流出したこと、そのうち25戸が復興地に移転し、残りの18戸は個別に宅地を造成したこと、宅地造成は発災後5か月後の昭和8年8月に始まり、昭和9年には住宅建設が始まり昭和10年には完成したこと、造成にかかる費用は村から借り入れ製塩業による利益により昭和24年5月には返済が完了したことなど、復興の詳細が明らかとなった。また、復興地に残る住宅のなかで建設当時の姿をとどめる住宅三棟につき実測調査を行った。その結果、「オカミ」と呼ばれる炉のある部屋を中心とした間取り、オカミーオシイレとマエザシキーオクザシキの間仕切り位置がずれていることなど、同時代の岩手県内の気仙住宅とほぼ同じ間取りであることが明らかとなった。一方、オカミに天井が設けられ天井裏を養蚕に利用していたこと、船枻造りと呼ばれる軒下を出すための構造部材が室内側にてむき出しになっている点など、異なる点も確認できた。
 このように、昭和三陸津波後の宮城県内の復興においては、個別移転が過半を占め、集団移転を行った集落も移転先の標高が低く大半が東日本大震災による被害により壊滅的な被害を受けたことを確認した。相川田ノ入集落については、同集落が十三浜の中心的集落であり、当時の千葉捨治村長の主導により、安全性の高い移転計画が実現したと考えられる。   
  

今後の課題・見通し
 宮城県と岩手県での復興手法の差異について、当初は宮城県内において産業組合が定着しなかったためではないかと考えたが、宮城県内にも同時期に産業組合が設置されていたことが明らかとなった。今後は両県の違いをもたらした要因につきさらなる調査を行いたい。  

 

2017年5月

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