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研究助成

成果報告

2009年度

日本の近代庭園にみる煎茶的文化とその地域性に関わる研究
― 近代数奇空間はどのように成立したのか

京都造形芸術大学教授
尼﨑 博正

 本研究は、日本庭園と建築からなる数寄的な空間が近代的な性格を帯びる過程における、煎茶文化の影響とその地域的な特色を明らかにしようとするものである。
 庭園や建築の意匠を考察するに際し、「和風」というと従来は茶の湯、すなわち抹茶の文化との関係で語られるのが常であった。しかし幕末以降、近代といわれる時代は煎茶が興隆した時代でもあり、近代庭園の成立と煎茶文化の興隆とは互いに密接に関係しているのである。本研究の研究代表者や共同研究者らによるこれまでの研究から、近代庭園や和風建築の意匠には煎茶文化の影響が強く見受けられ、近世においても煎茶文化は、中国文人の悠々自適な隠遁生活の境遇に人間的で自然な感情の発露の場を見出した有為な人たちに受け入れられ、大名庭園や宮廷の庭園にも煎茶文化の影響が浸透していたこと可能性が明らかになりつつある。
 また煎茶文化は、それを受容した人たちの旅の足跡に添って伝播し発展しており、特に街道沿いや舟運の拠点となる港町に深く浸透していた可能性がある。
 今回の研究では伝播ルートを一つとして鹿児島県地域(仙厳園、島津氏玉里邸、マナーハウス島津重富荘・旧島津久光邸、知覧の武家屋敷群)と瀬戸内海沿岸地域(岡山県・野崎家ほか)、それに煎茶文化発展の中心地として京都(石村亭および南禅寺界隈邸宅群の庭園)に焦点をあて、現存する近代庭園と関連史料の調査を行った。
 鹿児島藩の島津忠良は茶の湯嫌いで知られ、むしろ煎茶に関心を寄せていた。鹿児島藩では受け入れるべき先進的な異国文化の一つとして煎茶を受け入れる傾向が強く、造営された庭園や建築にも煎茶文化の影響が認められた。
 近代数寄者と呼ばれる人たちにも煎茶を好み実践していたいものが少ない。今回の調査でも、関西を代表する近代数寄者である野村得庵が煎茶器を所有し、煎茶会を催し、あるいは列席していたことが明らかになった。碧雲荘の造営など、近代庭園の発展に大きな足跡を残した得庵の庭園観の形成にも煎茶文化の影響が見て取れる。
 王政復古を理想に掲げた平安時代に、嵯峨王朝期の茶が「煎茶」の名で呼ばれていただけに、幕末の「尊王攘夷」「王政復古」の社会の動きとともに、その理想を高めるひとたちの共通の文化意識として煎茶は広まっていった。武家社会においても幕府との関係によって煎茶の受容の度合いは異なり、特に勤皇藩からは煎茶を好む人物が多く輩出ている。ここに煎茶的文化の浸透の度合いの地域性が生まれたことが推定できる。
 また、このような思想的、社会的背景を考慮すれば、京都という王朝の雅が凝縮され老荘思想との関係を指定されている桂離宮や修学院利休などの庭園が、近代庭園のスタイル形成における具体的な手引きとなっていたとしても不思議ではない。
 今後、近代の数寄空間の特質を考える上で煎茶文化を時代の好尚として積極的に評価し、さらに地域性を踏まえた研究を発展させることにより、近代庭園を検証する上の新たな、かつ確実な視点を提示することができると期待される。
2010年9月
(敬称略)

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