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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 2014年受賞

本田 晃子(ほんだ あきこ)

『天体建築論 ―― レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』

(東京大学出版会)

1979年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(超域文化科学専攻表象文化論分野)。課程博士(学術)。
日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ研究センター非常勤研究員を経て、現在、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター共同研究員。
著書:『ロシア文化の方舟』(共著、東洋書店)など。

『天体建築論 ―― レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』

 本書の主人公は、イワン・レオニドフ。ソ連邦の建築家である。1902年、革命前のロシアに生まれ、1959年、スターリン批判の渦中に電車事故で死んでいる。ほとんど何も実作を残していない「紙上建築家」である。
 なぜ、単なる「紙上建築家」が主人公になりうるのか?レオニドフは寡黙である。その問いに対する答えを、彼の言葉でなく、彼の「紙上建築」によって語らせてみる――それが、本書である。
 1917年革命を成功させたボリシェビキは、新たな政治体制を打ち立てるだけでなく、新たな生活の場としての新たな社会の建設をも目指していた。このような世界変革への熱意に呼応して、革命前後のロシアでは、来るべき世界を先取りすべく、あらゆる芸術分野においてアヴァンギャルド運動が大規模に繰り広げられていた。芸術家とは、具体的な問題の解決に取り組む技術者と異なり、人間生活のあり方全体を俯瞰的な立場から構築しうる特権的な存在とみなされたからである。そして、まさに芸術と技術とを統合する建築家こそ、デミウルゴス(世界創造者)としての芸術家の中で最も特権的な立場を占めることになる。
 このアヴァンギャルド建築の試みをその極限まで追求したのが、レオニドフであった。例えば、本書のカヴァーの装画に使われた文化宮殿プロジェクトでは、広大な平面に半球体、直方体、立方体、ピラミッドの四つの幾何形態が配置され、その一角に飛行船の係留用マスト兼ラジオ放送塔としてのポールが一本真っ直ぐ天上へと伸びているだけである。それは、人間の生活を土地に縛られた伝統的な社会関係から解放し、現実の空間に場を持たないマスコミュニケーションによって再構成する試みと読める。その新たな共同性は、飛行船に象徴される、地上の事物がすべて既成の意味を失ってしまう天体からの視点を身につけることによってしか実現されないのである。
 このように、建築とはいかにして世界を新しく見るという作業であるならば、具体的な建築物と紙の上の建築との区別は相対化される。レオニドフは、紙上建築家でしかありえなかったのである。
 1930年代後半からの社会主義リアリズムによって、ロシアのアヴァンギャルド建築は根こそぎにされてしまう。レオニドフも批判され、抑圧される。「第一の建築家」であることを自任するスターリンによって、人間も建築物も都市空間もすべて意味づけられ、クレムリンを重力の中心とする太陽系のように統合されていくのである。
 だが、ここで逆説が起こる。この時代の中で、天体の視点に立ってすべての事物から既存の意味をはぎ取ってしまうレオニドフの紙上建築こそ、すべての建造物を一義的な意味によって覆い尽くそうとする社会主義リアリズムに対抗しうる唯一の建築となりえたのである。ソ連邦が崩壊し社会主義リアリズムが消滅した後、レオニドフの紙上建築が具体的な建造物を超えて甦るという奇跡を私たちは経験しているのである。
 評者はソ連邦についても建築についても専門的知識を持っていない。それゆえ、この選評も本書の内容を自分なりにまとめることしかできなかった。だが、本書は評者のような専門外の読者をも引きつけるダイナミックな思考に満ちている。新たな才能の登場を喜びたい。
 ただ、すべての意味の重心スターリンとすべての意味を無化するレオニドフという二項対立は、あまりにも綺麗すぎる。どこにも意味の重心が存在しなくなった現代において、レオニドフの紙上建築、さらには彼が代表するアヴァンギャルド建築をどう読むべきなのかは、著者のこれからの仕事を待ってみたい。

岩井 克人(国際基督教大学客員教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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