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サントリー学芸賞

選評

政治・経済 2011年受賞

井上 正也(いのうえ まさや)

『日中国交正常化の政治史』

(名古屋大学出版会)

1979年生まれ。
神戸大学大学院法学研究科博士後期課程修了。
神戸大学大学院法学研究科専任講師を経て、現在、香川大学法学部准教授。
論文:「日中国交正常化交渉における台湾問題」(『歴史の桎梏を越えて』(千倉書房)所収)など。

『日中国交正常化の政治史』

 戦後日本外交の研究は、かつてはアメリカの資料を中心として行われることが多かった。利用できる資料はもっぱらアメリカの資料だったので、やむをえなかった。そうした研究から浮かびあがるのは、受動的な日本外交という像であることが多かった。
 しかし戦後日本の外交文書の公開が進むとともに、日本がアメリカに翻弄されていただけではなく、相当に主体的な動きをしていたことが明らかになってきた。2001年の情報公開法によって、外交文書の公開はさらに飛躍的に進んだ。本書は、この情報公開法をフルに利用し、多くの関係者とのインタビューを行い、戦後外交史の最大の問題の一つである日中国交正常化に取り組んだ大作である。
 日中国交正常化については、まず、民間の日中友好論者の役割を強調する「友好史観」と言うべきものがあった。他方で、国交正常化は国際政治の構造変化によって可能となったことを重視する議論が登場した。さらに、日本の文書の検討の中から、陳肇斌『戦後日本の中国政策』のように、日本は台湾との関係を維持しつつ中国との関係の正常化をめざし、相当の戦略性を持って行動したとする研究も現われた。
 本書は、陳の問題関心を引き継ぎながら、そうした戦略性がなぜ失われていったかを、膨大な資料を丹念に分析して、中国専門家を含む多くの官僚や政治家の多様な意見をカバーしながら、日華平和条約から日中国交正常化に至る20年間について、包括的な検討を加えている。
 そして、著者自身が序論で述べているとおり、「日本政府が、様々な代替可能性を模索しつつも、構造的制約と内在的限界に直面して、選択肢が徐々に狭隘化していく政治過程」が明らかにされる。700ページの随所に新しい解釈や発見があり、まことに興味深い充実した作品である。とくに佐藤政策の中国観や国連政策については、教えられることが多い。
 ただ、評者は二つの疑問を持った。まず、それでは日本に、いつ、どのような選択肢があったのかということである。日本が日米安保を堅持し、アメリカがベトナム戦争を続け、蒋介石が妥協を拒み、中国が強い立場を崩さなかったとき、日本が取り得る選択肢は他にあったのだろうか。
 もう一つの疑問は、資料が豊富になるにつれ、過剰解釈の危険が生じるということである。たとえば佐藤栄作が、いつ、なぜ、ある決定をしたのかということは、究極的には分からないことも多い。私は二年ほど前、いわゆる「安保と密約」に関する調査に携わったが、なぜ佐藤がこのような決定をしたか、よく分からない、と感じることが何度もあった。政治家の決定は、合理的には説明しきれないことがある。よく将来を見通して決断していたのか、あるいは目前の利益を重視して行き当たりばったりの決定をしていたのか、容易に区別はつかないことがある。アメリカでは、フランクリン・ルーズヴェルトにも同じことを感じることがある。
 以上は、本書の価値を貶めるものではまったくない。むしろ大いに知的関心を刺激されての所感に過ぎない。著者の次の作品が本当に楽しみである。

北岡 伸一(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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