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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 2007年受賞

納富 信留(のうとみ のぶる)

『ソフィストとは誰か?』

(人文書院)

1965年生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学(哲学専攻)。英国ケンブリッジ大学大学院古典学部修了。Ph.D.(古典学)。
九州大学助教授などを経て、慶應義塾大学文学部准教授。
著書:『哲学者の誕生』(筑摩書房)など。

『ソフィストとは誰か?』

 「哲学」が西欧から輸入されて一世紀半近くになるわが邦で、ソフィストについて書かれた、これがまだ二冊目の本なのだという。一冊目は1941年に刊行された田中美知太郎の『ソフィスト』。日本の哲学研究はなぜソフィストを回避してきたのか。「哲学まがい」のものにすぎないと思いなされてきたからである。西洋の哲学史家の弁舌に従って。
 この本の著者は、知的いとなみとしての哲学は「ソフィストではない」というかたちでしか自己規定できないし、逆にソフィストの存在も哲学者への挑戦としてしか意味をもたないと言い切る。ソフィストの言論は、哲学の影でもなければ未熟な哲学なのでもない。それを象徴するのが、哲学者ソクラテスはソフィストとして処刑されたという逆説的な事実である。
 ソフィストというのは、よく言われるように、懐疑主義、相対主義、不可知論といった哲学説の一つではなく、「哲学」という枠組みそのものを消去ないしは相対化するという目論見をもった、「哲学という営みへの対抗、挑戦、パロディ」であると著者はいう。これに応えきるなかで哲学は「哲学」という名の知的いとなみとして生成する。その意味で、「ソフィストを消し去ったこの二千年にも及ぶ哲学史は、その実、哲学が成立していない状況、哲学が名のみさまよう舞台であったのかもしれない」と、著者は断じる。
 凄い問いかけではあるが、哲学者が哲学研究者というかたちで「専門家集団の内輪のパズルへと回収されて、象牙の塔のなかの遊戯と化してしまう」その後の哲学の行く末に思いをはせると、これはいまも「教育産業」の一翼をになう哲学への厳しい自己批判になる。そう、哲学者こそソフィストではなかったのか、と。それほどにソフィストの存在は、「哲学にとって一筋縄では扱えない、底知れぬ深淵」なのである。
 著者は、古代ギリシャ文献についての驚くべき読解能力を駆使し、一方で、哲学者からみたソフィスト像を描きつつ、他方で、哲学の枠組みを前提とせずに、ソフィスト、とくにゴルギアスと(日本ではほとんど論じられたことのない)アルキダマスの言説を解読する。重層論法や枚挙論法、即興演説の分析がそれである。
 「叙事詩や悲劇の言説を模倣し、自然科学の知見を利用し、裁判や審議の場で実践的に活躍し、抽象的な理論を駆使して自らの立場を表明する」というかたちで、そのつどの弁論の場で、領界を越境し、それらをかき混ぜ、ひいては知の総体を揺さぶる、その言論の力こそ、ソフィストの真骨頂であった。その場での判断を留保し、無時間的な真理や普遍性を標榜する「哲学」の真摯な語りの、そのレトリカルな存立をこそ問いただす者としてソフィストを描く著者には、果てしない論争というかたちで問題を永遠に先送りしてきた哲学のあり方こそ「理性の危機」ではないかという思いがある。
 多元主義と相対主義のせり上がり、(パラダイム論や解釈学、人類学的認識といった)知を歴史的・文化的に相対化する動向、言語行為論や脱構築論……というふうに、《ソフィスト問題》は、そうとは名づけられることなく、現代思想の中核に潜む問題を突き刺してきた。それはわたしたちに「哲学」の可能性を根底から問いなおすことを強いている。そのあたりのもっと踏み込んだ発言を、著者から今後もっともっと聞きたくおもう。

鷲田 清一(大阪大学総長)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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