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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 2004年受賞

黒岩 比佐子(くろいわ ひさこ)

『「食道楽」の人 村井弦斎』

(岩波書店)

1958年、東京都千代田区生まれ。
1981年、慶應義塾大学文学部卒業(国文学専攻)。
大学卒業後、企業PR関係の会社勤務を経て、フリーランスのライター・編集者となる。以後、企業広報や社史制作に携わるほか、雑誌やPR誌などで取材・執筆活動を行う。現在、ノンフィクションライターとして幅広い分野で執筆中。
著書:『音のない記憶 ―― ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)、『伝書鳩 ―― もうひとつのIT』(文藝春秋)など。

『「食道楽」の人 村井弦斎』

 村井弦斎(げんさい)の名は、一般には今日ほとんど忘れ去られている。著者は、弦斎の著作のみならず、手帳、原稿、書簡の類を丹念に読み、当時の弦斎に関する資料、文献を調査して、この偉大な小説家、あるいは啓蒙思想家、あるいは食物研究家、あるいは仙人、あるいは奇人の全体像を見事に掘り起こしている。
 村井の代表作ともいうべき『食道楽』は、1903年、新聞小説として「報知新聞」に、1年間連載され、大反響を呼んだ。それが単行本として四巻に分けて刊行されると、“飛ぶような勢いで”売れ、四巻で十万部を軽く超えたという。書物というものが高価で、また読者側の教育も普及していなかったこの時代に、十万部は大変な数字である。漱石の小説でさえ、増刷は何百何十部単位という時代である。しかもこの小説は昭和2年の弦斎の死後もくり返し復刻されている。
 他にも彼には『日の出島』という、明治期最長の小説があり、これは新聞に足かけ6年も連載され多くの読者を得たというが、単行本13冊はその後復刊されていない。
 たしかに著者の言う通り、弦斎は当時の大作家、尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外などの作品よりも幅広く人々に愛読されたのである。
 『食道楽』は小説ではあるけれど、その中で料理の作り方が詳しく紹介される。
 「お登和さん、西洋菓子は珈琲を出す時に添へるのと紅茶やチョコレートを出す時に添へるのと種類が違ひますか」
 「ハイ違ひます。珈琲は濃厚なものですから淡白なお菓子を出します(……)先づ玉子を四つ割(わり)まして白身は別にして、四つの黄身へお砂糖の篩(ふる)ったのを混ぜて……」
 という調子で、その頃新聞を取っているような家の婦人なら自分も作ってみようとか、作れなくても読むだけでも楽しい、という風に歓迎されたことであろう。しかもそのあたりは読みやすい会話文である。
 しかし弦斎は単に料理の研究紹介者ではなく、日本民族の身体を強健にしようと願う愛国者であり、「食育論」という、今の日本にも通用する理論を奉ずる思想家であったようである。
 『食道楽』の翌年、日露戦争の年には「HANA, a Daughter of Japan」(邦題『花子』)という英文小説を書いて日本国民の精神を海外に宣伝しようとしている。
 弦斎は幼い頃から漢学の教育を受け、また東京外国語学校でロシア語を学んでいる。ロシアが日本の脅威になる事を予感し、そのとき日本国のために役立つ人材になろうと考えていたようである。
 若き日、アメリカに渡った彼は、「大和魂」を世界に知らせたい、と早くから考えていたという。
 今、我々が感心するのは、19歳の弦斎が「人世必要の学問を論ず」とか「我邦今日の急務を論ず」などという論文を書いてしきりに雑誌に投稿していることである。テーマも真剣、文章も立派で、今の大学生とはえらい違いである。
 晩年の弦斎は断食をくりかえし、木食を実行し、半年間も山中穴居生活を試みたという。その無理がたたって身体を傷めたようだが、その生涯は明治の一知識人の生き方として尊敬に値する。
 著者は弦斎とその周辺について、調べるべきことは調べ尽くしたと言い切れる、優れた評伝に仕上げている。

奥本 大三郎(埼玉大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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