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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1991年受賞

坂本 多加雄(さかもと たかお)

『市場・道徳・秩序』

(創文社)

1950年、名古屋市生まれ。
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。
学習院大学法学部助教授を経て、現在、学習院大学法学部教授。
著書:『山路愛山』(吉川弘文館)

『市場・道徳・秩序』

 本書は近代日本にかんする経済思想の研究書として秀逸の水準に達している。しかもその研究の分野とそれに迫る接近法もまたきわめて斬新な種類のものとなっている。
 本書の主題は明治期における4人の著名な思想家(福沢諭吉、徳富蘇峰、中江兆民および幸徳秋水)が西洋出自の近代主義にたいして、とりわけそこにおける市場中心的な観念と行動に対して、いかなる反応を示したかを、緻密な文献的考証にもとづきながら比較考量したものである。
 それら明治の思想家たちの反応は複雑であった。たとえば、市場活動それ自身が社会の道徳的秩序を形成するに当って中心的役割を果たすとみなした諭吉にあってすら、市場の関与し切れない社会領域があることが認められていた。そして、蘇峰、兆民、秋水となると、いっそう際立って、市場活動に適合するような道徳は偏狭かつ皮相のものにすぎないのではないかという疑念さらには批判を、激しく表明するようになる。
 坂本氏は諭吉にみられたような秩序観、つまり健全な道徳の中心は市場活動をつうじて形成されるという秩序観を、「市場社会」と名づける。「市場社会」の秩序観は、いうまでもなく、F・フォン・ハイエクによって提唱された「自生的秩序」の考え方に沿うものである。いいかえると、坂本氏の貢献は、ハイエク的な秩序観への接近およびそれからの離反が明治期の経済思想においていかに複雑な交錯をみせたかを、解釈学的に追ってみせたところにあるといえる。
 もちろん、本書で扱われているのは単なる経済思想ではない。というより経済と道徳の密接不可分の関係が本書によって浮彫にされているわけだ。これは、いわば、純粋経済学にたいする厳しい批判でもある。歴史や社会といわれる領域あるいは要素とのかかわりで形づくられる道徳の問題をほとんど捨象するのが純粋経済学であろうが、それは経済のリアリティをつかまえられないのみならず、それをつかまえるための原理ともなりえない。本書が明らかにしているもう一つの真実は、経済もまた道徳をはじめとする人々の精神の歴史的蓄積の上に樹立されるという平凡にして重要な事柄なのである。
 このことは、近代主義というあまりにも単純な視座から近代史を眺めてはいけないということを意味する。近代の成立とは、モダニズムにたいしてプレモダニズムとポストモダニズムとが様々に絡み合い、種々の矛盾を惹き起こした過程のことである。逆にいうと、坂本氏は現代人のもつ近代主義の意識がいかに狭隘なものであるかを撃っているわけである。
 ハイエキアンの史観は、市場にたいして過大な調和観を寄せているという点で、疑問なしとしない。しかし、ともかく、その史観を日本の経済思想史に適用した最初の綿密な試みとして、本書は高く評価されるべきである。

西部 邁(評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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