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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1986年受賞

坂部 恵(さかべ めぐみ)

『和辻哲郎』を中心として

(岩波書店)

1936年生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科修了。
東京都立大学人文学部助教授、東京大学教養学部助教授などを経て、現在、東京大学文学部教授。
著書:『仮面の解釈学』(東京大学出版会)、『「ふれる」ことの哲学』(岩波書店)など。

『和辻哲郎』を中心として

 この書物は新世代(直接、和辻哲郎と接触のなかったという意味で)による最初の本格的和辻哲郎論である。死後四半世紀という歳月を経ていることに、いささか感慨なきを得ない。
 第二に、この書物は和辻哲郎の新しさを強調していることで画期的意味をもっている。著者は、和辻哲郎の矛盾や限界を厳密に指摘しながら、その世界が「現象学と身体論の交わる場所である」ことを明言し、今日の思想界の流行、もしくは戦後の和辻哲郎の否定に対して、断乎たる主張をもっていることである。
 第三に、書物の構成が工夫され、和辻論としても、ほとんど無視されている晩年の『歌舞伎と操り浄瑠璃』を取り上げ、その構想力への着目から出発していることである。そこから『面とペルソナ』、『人間の学としての倫理学』、『風土』、『古寺巡礼』などの作品が、豊かな文脈として語られてゆく。
 第四に、「イデーを見る眼」といわれた和辻哲学の直観、言語、解釈の人文科学における卓越性と問題性をよく押え、今後の学問への示唆の大きさを認識している。
 第五に、世界を異にしながら出自を共有している柳田國男との対比がみごとに生かされているだけでなく、著者の西欧哲学史への造詣が、和辻哲郎を世界の哲学史において捉えようとする志向が、この書物を重いものとしている。
 戦後の日本の哲学界は、ながい間、言論界においてほとんど主導的役割を果たすことなく、また人文科学・社会科学への影響力を失ってしまっていた。それは戦後の日本が“反哲学”の季節であり、“哲学から科学へ”のスローガンから出発したことに起因している。またそれ以後、マルクス主義が独占的地位を占めていたことによる。
 1970年代以降、現象学、記号論理学、分析哲学、構造主義、精神分析学といった諸潮流が噴出した感があるが、それも日本の思想界にあっては、さまざまなる意匠であって、次から次へと意匠を追うに忙しく、その視点から人間や世界をみる自らの言葉となる場合は稀であった。
 それは、自らが立っている日本の現実から考え、さらに日本の伝統のなかから、何を如何に、批判的に継承してゆくかという姿勢を欠如しているためである。今日の日本は文字通り世界と共にある。ファッションや経済の世界だけが市民権を得ていることはおかしい。日本の思想界がつねに世界に対して謙虚に開かれてあること、同時に、日本人の思惟に根拠ある自信をもつことが、今日ほど望まれることはない。
 著者がその才幹と学殖を生かし、和辻哲郎の『倫理学』体系の本格的批判を果されること、また本書でも言及されている九鬼周造論を書かれること、さらに混迷を深める思想界・言論界に対して、果敢なる戦士たることを切望してやまない。

粕谷 一希(評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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