冒頭を読む

 

母語は世界言語によって磨かれる
ー あるチェコ語話者の回想

トマーシュ・ユルコヴィッチ

(翻訳家)

1989年以前ならびに1989年直後

私がチェコのカレル大学の学生として日本学科(かつてのドイツの大学に範を求めた学科名)で学んでいた1990年代半ば頃、同級生は次のきわめて対照的なグループに二分されていた。 日本語を一年生の時点ですでに習得しているグループと、日本語の海で絶望的なまでにもがいてしまっているグループだ。両者の差は一目で歴然としていた。前者のグループは、すでに日本に行き、ある程度の期間を過ごした経験がある学生たちであり、後者のグループは、さまざまな理由からそうした幸運に恵まれなかった学生である。

私は、残念ながら第二のグループに属していたため、前者のグループに入れるようにするにはどんなことでもしなければならないと意気込み、どんな犠牲を払ってでも日本にたどり着いて、日本で日本語を習得してやろうと心に誓ったのだった。

今から思えば、あの頃の私はずいぶんと運が良かった。 やろうと思ったことをすべて叶えられるチャンスがあったので、夢にまで見た日本行きはすべて私自身にかかっていたからだ。 これがもしもあれからほんの数年前、そう、1989年以前であったなら、夢の実現はもっと困難だったであろう。 チェコスロヴァキアの市民から見れば、日本ははるか遠くにある東洋の国である。 にもかかわらず、政治的には西側の国と見做されていた。つまり、日本と接触する可能性は著しく制限されていたのだ。

西側の言語―日本語もここに含まれるのだが―を学ぶことが社会主義時代のチェコスロヴァキアにおいて露骨に禁止されていたということはなかったものの、特段支援されていたというわけでもなかった。実際には、次のソヴィエト連邦時代のユダヤ人コミュニティで広まっていた古い小咄のような感じだった。

KGBのエージェントがゴーリキー公園のベンチに腰かけて、ユダヤ人がヘブライ語の文法を勉強している様子をじっと見て、声をかけた。 「おい、ユダヤ人、なんでそんなもので要らん苦労をしてるんだよ。 ここから絶対にイスラエルに行けるわけがないことぐらい、お前にも分かってるだろうが」「天国でヘブライ語で話しかけられたら、どうするんだよ」ユダヤ人は退き下がらない。 「じゃあ、ユダヤ人、地獄に落ちたらどうするんだよ」「うーん」イスラエルの民はしばらく考え込んでから、こう答える。 「ロシア語だったら、こうやって話せてるだろ」

この小咄に出てくるイスラエルの民のように、ロシア語は義務教育での授業を受けていた者はみな話せた(あるいは少なくとも話せるようにすべきであった)が、他の言語はロシア語よりも弱い立場に置かれていた。 チェコスロヴァキアにおいて公然とある言語の授業が禁止されたことがあるかは、私には分からない。 だが、ある証言によると1960年代末には中等学校や大学においては、いわゆる第二外国語としてのロシア語以外の言語もすでに教えられていたとのことだ。

最も広く教えられていた第二外国語は、おそらくはドイツ語であろうが、英語やフランス語やスペイン語も教えられていたという。英語は実際のところソヴィエト連邦では義務教育になっていた。 したがってソヴィエト連邦の兄弟国においても英語が禁止されてはいなかったということだ。


トマーシュ・ユルコヴィッチ(翻訳家)

1976年生まれ。
プラハ・カレル大学大学院博士 後期課程在学中。専攻はアジア・アフリカ文学理 論ならびに文学史。谷崎潤一郎と村上春樹など近 現代の日本文学の翻訳家として活躍している。主 な訳書に村上春樹『ノルウェイの森』、『海辺のカ フカ』、『1Q84』、谷崎潤一郎『秘密』など。

 

スーパーグローバル大学のゆくえ
ー 外国人教員「等」の功罪

苅谷剛彦(オックスフォード大学社会学科教授)

教育再生実行会議の提言を受け2015年から「スーパーグローバル大学創成支援」事業が始まった。 37の大学が選ばれ、大学教育のさらなる国際化を目指す政策である。 会議の提言には、今後10年間で世界の大学ランキング100位以内に日本の大学が10校入ることを目標にするとある(現在は二校)。

日本の大学のグローバル化政策の中で何が起きているのか。 そこにはどのような陥穽があるのか。 陥るのか。 その功罪は何か。 この詳論では、これらの問いにできるだけ実証的な分析を通じて解答を与えていく。

本論に入る前に、この「スーパーグローバル大学」という名称について触れておきたい。 もちろんこれは立派な和製英語である。 世界中ですでにワールドクラスの大学として認識されている大学は、「グローバルな大学」といえば十分である(ローカルでもナショナルでもなく国際化されているという意味で)。 だから自らを「スーパーグローバル大学」などと呼びはしない。そこに「スーパー」を冠した「超地球的」な大学はいったいどこに飛び出していこうというのか。 その奇妙さを知ってか、文部科学省による正式の英訳はTop Global Universityで、これなら日本語にすればトップレベルのグローバル大学の 意味になる。

このような前置きを置いたのは、この和製英語の珍妙さが日本ではそれとして認識されないことが象徴しているように、日本から距離を置いた地点からこの政策の詳細を分析していくと、国際的に通用しない、国内向けの「和製」のグローバル化政策(この表現自体形容矛盾である!)に過ぎないことがあらわになるからである。 そして、にもかかわらず、こうしたグローバル化政策がとられることに見られる、二一世紀初頭の「ニッポン」という問題を考える手がかりが、以下の分析によって得られると考えるのである。

背景

この事業のもととなった教育再生実行会議の提言『これからの大学教育等の在り方について』(2013年5月28日)には、「大学のグローバル化の遅れは危機的状況」にあるとの認識が示され、さらに「我が国の大学を絶えざる挑戦と創造の場へと再生することは、日本が再び世界の中で競争力を高め、輝きを取り戻す「日本再生」のための大きな柱の一つです」と続く。 この引用からもわかるように、大学のグローバル化の遅れを取り戻すことは、日本再生、就なかんずく中日本の競争力再生の一環と考えられている。そして、こうした政府の認識を後押ししていたのが、財界からのグローバル人材の要請である。 同じ年に出された経団連の提言『世界を舞台に活躍できる人づくりのために』では、「企業活動のグローバル化は今後さらに加速すること」を前提に「グローバル人材」へのニーズが高まると予測し、その育成の必要性が訴えられている。 そのひとつの帰結として大学の国際化が提唱される。 こうした議論は首相官邸の産業競争力会議でも繰り返され、日本の産業競争力再生の一環として大学教育の国際化を早急に進めることが提案されている。

一例をあげれば、安倍首相も出席した第四回会議(2013年3月15日開催)では、下村文部科学大臣が次のような数値目標を掲げた発言を行っている。


苅谷剛彦 Takehiko Kariya(オックスフォード大学社会学科教授)

1955年生まれ。
東京大学大学院教育学研究科修 士課程、米国ノースウェスタン大学博士課程修了 (Ph.D社会学)。専門は社会学。東京大学大学院 教育学研究科教授などを経て現職。著書に『教育 の世紀』(サントリー学芸賞、弘文堂)、『学力と階 層』(朝日新聞出版)など。

 

グローバルイングリッシュでいこう

船川淳志(株式会社グローバルインパクト代表パートナー)

ビジネスの公用語は「グローバルイングリッシュ」

私は過去24年間、コンサルタントとして、あるいはファシリテーターとして欧米、およびアジアでコンサルティング案件やワークショップ、そして講演を行ってきた。 多国籍の参加者からなる、所謂「グローバルワークショップ」の時には次の質問を参加者にすることがある。

What is the language which is most commonly used on this planet?
(地球上で最もよく使われる言語はなんでしょう?)

“Chinese!”とか“Spanish!”と真顔でこたえる参加者がいたらジョークであることを念押しする。 そんなやりとりをすると、参加者から“English!”という声が出る。 その場合は、“Not quite.”(ちょっと違いますね)とやんわり受け流した後で、“The answer is ‘broken English.’”と述べ、“In other words, global English.”と続ける。 どこの国でも、参加者からは笑いとともに大きな頷きが出る。

笑わない、否、笑えない参加者がいる。他の参加者、例えば欧米や南米からの参加者、あるいはシンガポール人、インド人、中国人などは笑いだけでなく、頷きも、こちらから見ると反応が明確でスピーカーとしてわかりやすい。 ところが、きょとんとして、あるいは無表情で笑っていない参加者が存在する。決して、特定の国籍、民族、人種というわけではない。

残念ながらその「無表情・無反応の参加者」とはグローバルイングリッシュ(以降GEと表記)を使えない日本人であることがあまりに多い。 もちろん、日本人でも世界の普通の英語、つまり、後述のGE2・0以上のレベルを話す人であれば他の参加者同様の反応をする。 日本人以外のGE2・0未満の人々は、もちろん存在はするが上記のようなグローバルセッションではあまり見かけない。

実はこのことが、これから読者の皆さんと考えていきたい、日本人の英語についての根深い問題なのだ。

さて、昨今ようやく「グローバルイングリッシュ」というカタカナが目につくようになってきたが、英語教育においては、以前からInternational Englishということばは存在していた。英語を母語としない「非ネイティブの英語」によって多くの人がコミュニケーションをとっている。 それが今や、加速度的に進展するグローバル化とグローバルビジネスの拡大によってさらに普及し、GEが世界の政治、経済活動の公用語となってきている現実と向き合うことが余儀なくされている。

冷戦が終わって25年、ネット社会の進展によってGEのさらなる普及は私のワークショップやグローバル人材育成研修の場面でも実感する。 以前は英語を話そうとしなかったフランス人やドイツ人の英語話者もこの20年、25年間で圧倒的に増えてきた。 加えてエストニア、リトアニアなどバルト三国、ルーマニア、スロベニア、ハンガリーなど旧東欧圏、ロシア、ウクライナあたりでも英語を話す管理職者、エンジニアが急増している。

アジアでは、以前は日本人と変わらない英語力だったタイ人、ベトナム人の英語力も確実に向上している。 韓国企業や中国企業の幹部が日本企業の役員よりもはるかに上手い英語力を使いこなして記者会見や新商品発表のプレゼンテーションを行っているのはWEB上でも世界に知られている。

もちろん、製造現場では、南米、アジア、旧東欧圏でもGEが出来ない人はいる。普通の会話ができないGE2・0未満の人に出会う蓋然性は高い。 中国では上海はもちろん、もともと外資導入が早かった深センをはじめとする経済特区及び大都市からちょっと離れると英語は通じなくなるし、ミャンマー、カンボジア、バングラデシュなどの新興国では管理職者の中にGEが出来ない人は たしかにいる。

それを踏まえても、世界を広く見てみると、確実にGEを使う人は増えているのに、なぜか日本人が取り残されている、というのが実態だ。従って、冒頭で紹介した無反応は日本人だけ、という状況が続いている。

その一方で、昨今、起きてきた「グローバル人材ブーム」につられてか、またもや英語ブームが再燃している。 そこで、本稿ではこの課題に迫り、人材育成を行っている立場からGEを中心に英語教育についての提言を行いたい。


船川淳志 Atsushi Funakawa(株式会社グローバルインパクト代表パートナー)

1956年生まれ。
慶應義塾大学法学部法律学科卒 業。東芝、アリコ・ジャパン勤務ののち、アメリ カ国際経営大学院(サンダーバード校)にてMBA を取得。その後、シリコンバレーを拠点に組織コ ンサルタントとして活動。帰国後グロービスのシ ニアマネージャーを経て、グローバルインパクト 社を設立。著書にTranscultural Management (米国Jossey-Bass出版)、『英語が社内公用語に なっても怖くない』(講談社)など多数。

 

数十回目の英語学習発作

辛酸なめ子

(漫画家、コラムニスト)

勉強歴は四半世紀以上・・・中高の6年間に大人になってからは駅前留学に英語ソフトにスカイプ、 TOEIC受験など数々の英語学習を積み重ねて参りました。 その一部の顛末は『なめ単』という拙著に綴りましたが、それにしてもいまだに喋れないのはなぜでしょう? 先日も、憧れの海外セレブ、リタ・オラに取材する機会があったのですが、通訳さんと帰国子女の編集者に頼りきりで私が発したのは「Do you like meat?」という問いかけだけでした・・・。 英会話ができないのは根本的に性格的な問題かもしれません。 そもそも日本語自体が覚えることが多すぎです。ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字、故事、熟語・・・。 もう英語のボキャブラリーのための空き容量がありません。

英語のコンプレックスで悩んでいるのは私だけでなく、国際的に見ても日本人は英語が苦手とされています。 海外の人からは、日本は英語が通じない秘境のような場所、と思われているようです。英語とダイエットは日本人の永遠の課題、というか時間つぶしのライフワークです。

そんなある日、電車の中でふと目に止まった、海外の大学の日本校オープンキャンパスのポスター。 社会人のための英語スクールが門戸を開いているそうで、それを見ていたら、また何カ月に一度の英語学習の発作が起こり、申し込んでしまいました。教室はきれいでロビーには自由に食べられるお菓子が(これが米国のお菓子だったらテンションが高まったのですが、プリッツとかパイの実とかドメスティックなラインナップでした)。 しかしお菓子に魅力を感じているのは私だけで、意識高い系の参加者は全く手を付けていませんでした。まず、インストラクターが出てきて「ハーイ!」と軽快に挨拶。 「It's a wonderful view. Last night was dark.」と、夜景を指し、ジョークまじりにトークしています。 英会話学校に行く度、最初に出てくるインストラクターがやたらハイテンションなことが多く、その雰囲気に呑まれて、きっと楽しく充実した学校に違いないと洗脳されてしまいます。 英語圏のビジネス術を見せられたようです。そして毎回乗せられやすい自分が……。

オープンキャンパスではお試しの授業を受けることができました。教室で配布された「Personality Quiz」と題されたプリントには、「I spend money quickly and easily.」「I can’t stand waiting for people.」などいくつか項目が書かれ、どの位当てはまるかチェックボックスに印を付けるようになっています。 まず、先生の答え「私はお金を使うのに慎重ですが、たまに細かい浪費をします」「息子が待ち合せに遅れるとつい怒ってしまいます。 妻にはそれが欠点だと言われます」など、プライベート情報を聞かされたあと、隣の人と自分の場合について英語で語り合いました。 英会話だと、なぜか自分の内面とか個人情報を気安く喋ってしまいます。 英語にはオープンマインドにさせる力があるのでしょうか。 隣の席のおしゃれ女子は、人を待つのはせいぜい10分くらいとのことで、私は一時間は待てるし怒りも感じない、と言ったら驚いていました。 どうしてか聞かれたので、肉を食べる量を減らしたら、怒りの感情がなくなったと返答。 初対面の人にここまでさらけ出せるとは自分でも驚きです。


辛酸なめ子 Nameko Shinsan(漫画家、コラムニスト)

1974年生まれ。
武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。 雑誌連載、執筆活動の合間を縫ってテレビ出演も行なっている 。著書に『セレブの黙示録』( 朝日新聞出版)、『辛酸なめ子の現代社会学』(幻冬舎)、『霊的探訪』(角川書店)、『なめ単』(朝日新聞出版)など多数。

 

「英語はしゃべれなくていい」は珍説か
ー 英語教育の“常識”を考え直す

阿部公彦

(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)

「日本人は文法はできるけど、会話はできない」 説の流布

英語教育のこととなると、いろいろ言いたいことがありすぎて困ってしまう・・・と、そんな悩みを抱えている のはどうやら私だけではないらしい。 こと英語となると議論百出、話題沸騰、さながら阿鼻叫喚の様相まで呈し、いっこうに話がまとまらない。

そのせいか、さまざま‘都市伝説’も生まれてきた。たとえば次のような説がまことしやかに語られるのを耳にしたことのある人は多いだろう。 「学校の授業が訳読中心だから、日本人は英会話ができない」、「帰国子女は意外と英語ができない」、「リスニングの勉強は聴き流すのが一番」、「小学校で英語を教えると日本語ができなくなる」・・・などなど。

これらの‘都市伝説’は興味深いものでいずれもたぷり時間をかけて検討する価値があると思うのだが、スペースに余裕があるわけでもないので的をしぼって議論したい。 今回問題にしたいのは、しばしば当然のように口にされる「日本人は文法は詳しいが、会話となるとだめ」との言である。 もちろん、「いえ、日本人は英会話ができますよ」などという水掛け論をしたいわけではない。 注目したいのは、どうしてこのような問題が頻繁に持ち出されるのかということである。現在行われようとしている英語教育改革の柱になっているのは、非常に単純化して言うと、「もっと英語がしゃべれるようになりたい!」という、おそらく50年以上前から振りかざされてきたトピックを少し現代風にアレンジしたものだ。 その根底には「今の英会話力ではだめだ」という焦燥感がある。 なぜ、それほど「会話力」なるものに私たちは躍起になるのか。

そこであらためて問いたいのは、英会話というものはそんなにできる必要があるのか、そもそも「英会話ができる」とはどういうことなのか、ということである。 もちろん、すぐ返ってくる応えはある程度予想できる。 ‘グローバル社会’の到来でビジネスチャンスは今や世界各地に広がっている。それどころか、日本国内の活性化も、世界中からマネーを呼びこむことではじめて実現できるのだし、人口が縮小しつつある日本が生き残るためには、海外から人材を呼びこむことも必要。 そのためにはやっぱり英会話。英語をぺらぺらしゃべってどんどん仕事をする。 言葉が通じなければ、誰も日本になど見向きもしないではないか、といった意見である。

たしかに説得力のある見解だ。ただ、今、問いたいのはあくまで「なぜ英会話なのか」ということである。 英語がいらないなどと言っているわけではない。ただ、会話、会話と騒ぐわりに、「会話とは何か?」ということをまともに考えたことがある人は少ないのではないか、というのが私の意見である。 これだけお金と時間をかけ、議論を積み重ねてきたにもかかわらず、英語教育の実情があまり改善されていないと不満に思う人が多いのはそのためではないか。

従って、以下の議論では会話とはいったい何をするためのものなのかという原点に立ちもどることで、なぜ日本の「英語教育がうまくいっていない」という意見を持つ人が後をたたないのかをあらためて問い直したい。 その結果、私がたどり着く結論は、あるいは意外なものとも思えるかもしれない。 なぜなら、それは「英会話ができるようになることで、下手をすると害悪さえ生まれる」というものだからである。 しかし、その前に手順を踏んで考えよう。まず検証しなければならないのは、なぜ「日本人は文法はできるが、会話ができない」という‘都市伝説’が流布してきたのかということである。

もちろん、一般的な英語不要論は決して新しいもので はない。 少し前にも成毛眞『日本人の9割に英語はいらない』が話題になり、ごく最近も行方昭夫『英会話不要論』のような本が世間にくすぶる反英会話的な気分に訴えようとしている。 よりアカデミックなアプローチとしては、1970年代にベストセラーとなった中津燎子『なんで英語やるの?』を踏まえた、寺沢拓敬『「なんで英語やるの?」の戦後史̶̶《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程』や、同じく70年代に「平泉試案」を発端に巻き起こった「英語教育大論争」を扱った鳥飼玖美子『英語教育論争から考える』といった著作が、英語教育をめぐる過去の議論の検証を進めてきた。論争の歴史を見て もわかるように、英語熱や英会話熱は過熱する一方ではなく、ときにそのバブルがはじけたり、疑念が呈されたりもしてきたのである。 つまり、折に触れて反作用は生じてきた。にもかかわらず、「もっと英語をしゃべれるようにならなければ!」という欲望は必ず復活する。 そこで必ずと言っていいほどセットになるのが、「日本人は文法はできるけど、会話ができない」との説だった。 その背景にはいったいどのような心理のメカニズムがあるのだろう。


阿部公彦 Masahiko Abe(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)

1966年生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科 修士課程修了。ケンブリッジ大学大学院博士課程 修了。帝京大学文学部専任講師などを経て、現職。 専門は英米文学。著書に『英詩のわかり方』(研究 社)、『文学を〈凝視〉する』(岩波書店、サントリー 学芸賞)など。

 

少数言語は復権するか
ー ソーシャルメディアへの期待

上村圭介

(大東文化大学外国語学部准教授)

ソーシャルメディアで使われる言語

英語(3億5982万)、スペイン語(1億4286万)、ポルトガル語(5953万)、フランス語(4437万)、インドネシア語(4380万)、トルコ語(3174万)、ドイツ語(3076万)、イタリア語(2389万)、アラビア語(2016万)、中国語(2011万)これは、2012年7月におけるフェイスブック利用者数の多い上位10言語である 。 2位以下の言語のうち、スペイン語からアラビア語までの8言語の利用者を足し合わせると、すでに英語の利用者数を超えている。 近年、英語圏以外の国や地域でのフェイスブック利用者が大きく増加していることを考えれば、英語以外の言語の利用者の割合はますます大きくなっていることだろう。

直近の動向では、中国語でフェイスブックを使う利用者は激減し、一方日本語でフェイスブックを使う利用者は急増している。 そのため、順位は若干入れ替わっているものの、大まかな見取り図は変わらない。

このような順位は、利用者の言語をどうやって判定するかで多少入れ替わるが、ここではフェイスブックの利用者が、プロフィールの設定の際に選択する言語をもとにしている。 プロフィールの言語設定は、利用者インタフェースの表示言語など、フェイスブックを利用する時のサービスと連動していることから、この言語設定はおおむねその利用者が日常的に使う言語を反映していると考えられる。

MIT Technology Reviewによれば、2013年12月のツイッターの投稿数が多い上位10の言語は、 英語 (34%)、日本語(16%)、スペイン語(12%)、マレー語(8%)、ポルトガル語(6%)、アラビア語(6%)、フランス語(2%)、トルコ語(2%)、タイ語(1%)、韓国・朝鮮語(1%)となっている。その他の言語は(12%)。英語でなされる「つぶやき」は、全体の三分の一程度にすぎない。

インターネットは、かつて英語だけの世界であると言われてきたが、2000年頃にはすでにインターネット利用者の中で英語話者が占める割合は半分を切っていた。 ソーシャルメディアの中でも、英語が支配的であるという時代はもはや終わったように思われる。


上村圭介 Keisuke Kamimura(大東文化大学外国語学部准教授)

1997年 大阪大学大学院文学研究科博士前期課程修了、2007年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程単位取得退学。 博士(学術)(慶應義塾大学)。 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター主幹研究員などを経て現職。 専門は言語政策、情報社会学。著書に『インターネットにおける言語と文化受容』(共著、NTT出版)、『クリエイティブ・シティ』(共著、NTT出版)など。

 

危機方言はおもしろい!

木部暢子

(国立国語研究所時空間変異研究系教授)

「めざせトリリンガル」。これは、琉球列島の中ほどに 位置する与論島の与論小学校のスローガンである。 ユンヌフトゥバ(与論言葉。ユンヌは「与論」、フトゥバは「言葉」の意)、標準語、英語の三つの言語を話せるようになろう、というのが与論小学校の目標なのだ。 英語が小学校5・6年生で必修化されたのが平成23年、与論小学校では、その8年前の平成15年からユンヌフトゥバを学校で教えている。 当初は、ユンヌフトゥバと標準語の二つだった与論のことわざ集も、最近は、ユンヌフトゥバと標準語と英語の3言語併記となった。 与論でこれだけ方言教育が盛んなのは、菊秀史さんの熱意によるところが大きいが、菊さんの話はまた後ですることとして、英語が必修化されたときに、それまで実施していたユンヌフトゥバ教育をやめないで、トリリンガルという方針を打ち出した与論小学校の取り組みは、素晴らしい。 方言は地域文化の基盤をなすもので、小さい頃にこれをしっかり身につけることが、後の知識の根本になる、ということに加えて、方言を考慮することによって、日本語と英語の二つの言語だけでは見えない世界が、見えてくることがあるからである。 その例に「複数」がある。 複数をどう表現するかは、言語や方言によって違いがある。たとえば、英語には名詞の複数形があるが、日本語にはそれがない。 だから、「メリーは目が青い」を“Merry has blue eye”と訳してしまって、「片目だけ青いの?」と皮肉られたりする。 これはまだ分かりやすい例で、複数形にはじつは、私たちが気にもとめなかった深 い問題が潜んでいる。私がそのことに最初に触れたのは、2010年夏の鹿児島県喜界島方言調査のときだった。

喜界島での話

喜界島は、鹿児島県の奄美群島の北部に位置する、周囲48Km、人口約7,400人の小さな島である。 行政上は鹿児島県に属しているけれども、文化的には琉球文化圏に入る。ことばも沖縄のことばに近い。 喜界島に方言調査に行ったのは、この島を含む奄美のことばがユネスコの「消滅危機言語」(Endangered Language)に指定されたからである。 世界に約6,000あるといわれる言語のうちの2,500の言語が消滅しかけている。 それに警鐘を鳴らしたのが2009年2月のユネスコの「消滅危機言語」の発表である。 日本では、奄美語を含めて八つの言語がこの指定を受ける結果となった。 方言調査では、最初に、日常生活でよく使用される単語を何と言うかを尋ねるのが一般的なやり方である。 「わたし」「あなた」といった人称代名詞は、最も基本的な単語なので、調査では必ず質問する。喜界島方言でも尋ねてみた。

「わたし」は?―「ワン」
「あなた」は?―「ナーミ」
「わたしたち」は?―「ワンナー」と「ワーチャ」 の二つ
え? どう違うんですか?

地元の人の回答によると、「ワンナー」は聞き手を含まない「わたしたち」、「ワーチャ」は聞き手を含む「わたしたち」という違いがあると言う。 たとえば、よそ者である私(筆者)が宴会で島の人たちに向かって、「わたしたちは東京から来ました」と挨拶する、そのときは「ワンナー」を使う。 島の人たちとすっかり打ち解けて、「わたしたちはもう友だちだね」と島の人に言う、そのときは「ワーチャ」を使う。


木部暢子 Nobuko Kibe(国立国語研究所時空間変異研究系教授)

1955年生まれ。
九州大学大学院文学研究科修士 課程(国語学国文学専攻)修了、博士(文学)。鹿児 島大学法文学部教授・学部長などを経て現職。専 門は言語学、日本語学。著書に『〈そうだったん だ! 日本語〉じゃっで方言なおもしとか』(岩波書 店)、『方言学入門』(共著、三省堂)など。

 

楽しみとしての科学
ー 一八世紀英国の女性と数学

三浦伸夫

(神戸大学国際文化学研究科教授)

書店で売られている女性向き雑誌には、スターや話題の人のゴシップ、ファッションや美容法などが写真付きで満載だ。 さらに必ずと言っていいほど星占いの欄もある。 ではそこに数学問題が掲載されていたらどうであろうか。 仰天すること間違いない。 ところがかつてそのようなことが実際にあったのだ。 週刊誌のなかった時代、カラー印刷もなかった時代だが、女性向きの雑誌に多くの数学問題が掲載され、しかも雑誌の名前とは裏腹に、もはや数学雑誌とも言えるようなものが長期間英国で発行し続けられ、多くの人々に受け入れられていた。 今日ではあまり知られることのないこの雑誌の紹介を通じて、科学と社会、数学と女性について考えてみよう。

まず当時の英国の科学や数学の状況を述べておこう。

一八世紀英国の科学

科学史上極めて大きな影響を与えたニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』、つまり『プリンキピア』が刊行されたのは1687年。 ニュートンは万有引力をはじめ力学や光学に貢献したが、よく知られているように、ニュートンとライプニッツの間では、微積分学の第一発見者が誰かを巡って優先権論争が生じた。 これはさらに神学問題にもおよび、一八世紀初頭ニュートン側とライプニッツ側では文書による熾烈な論争が続いた。 これ以降、英国とヨーロッパ大陸との学術交流は激減し、英国は独自の路線を歩むことになる。ヨーロッパ大陸ではライプニッツ以降数理科学が大展開していくが、英国ではその成果はあまり導入されず、ニュートンの方法が聖典のごとく普及していくことになる。 こうして優先権論争以降の18世紀は、「英国科学の衰退の時期」と言われることがある。 実際一九世紀初め、ケンブリッジ大学で若き数学者たちがフランス式解析学を導入するまでの約百年あまり、英国は耄碌、古ぼけたという意味のdotageにならって、「ドットの時代」(dot age)と軽蔑的に呼ばれている。 これは微積分学における第一次導関数を、ヨーロッパ大陸ではライプニッツ方式を採用してdxと書いていたのに対して、英国では「ニュートン流」に点(dot)を付けてx˙と表記していたからである。以上が一般的に言われている当時の状況である。

しかしこの評価には二つの問題がある。

まず、確かにニュートン流の数理科学は衰退したかもしれないが、それに代わって博物学が一八世紀後半以降の英国では全盛となったことである。 博物学者ジョセフ・バンクスが長く王立協会の会長職に就いていたことも英国のその科学の進展を決定づけた。さらに海外進出が盛んになり、異国の博物が大量に流入したことなどにもより、英国では中流階級に至るまで博物学に関心が持たれるようになった。 なかでも植物学に人気があったが、それはスウェーデンの分類学者リンネの仕事が1760年英国に紹介されたことにもよる。 こうしてこの時代は「植ボ タノマニア物狂の時代」と呼ばれるようになり、植物をはじめ博物関係の書物が数多く刊行されたことを見落としてはならない。 数理科学は衰退したと言うとしても、博物学は全盛だったのである。

さらに重要なのは、確かにこの時代英国は著名な専門科学者こそ輩出することは少ないが、一般大衆には科学や数学が他国以上に普及したことである。 「科学の大衆化の時代」が到来したのである。 巡回講師が各地を講演し、科学の公開講義は大盛況で、科学書や数学書の出版点数は驚くほど膨れあがり、科学器具、数学器具が次々と考案販売された。 科学や数学は決して衰退していないどころか、多くの大衆がそれに関心を持ち始めた時代なのである。

ではどのような人々が科学や数学に関心を持ったのであろうか。


三浦伸夫 Nobuo Miura(神戸大学国際文化学研究科教授)

1950年生まれ。
東京大学大学院理学研究科科学史科学基礎論博士課程単位取得退学。 専門は数学史、比較文明論。 著書に『古代エジプトの数学問題集を解いてみる』(NHK出版)、『数学の歴史』(放送大学教育振興会)、『エウクレイデス全集 第一巻』(共著、東京大学出版会)、『ユダヤ教・キリスト教・イスラームは共存できるか』(共著、明石書店)などがある。

 

読み解けない時代
ー なぜリバタリアニズムに退行したか

マーク・リラ

(コロンビア大学人文学教授)

冷戦終結から二五年が経った今、ふたたび冷戦について考えるべき時に来ている。 1989年の激動後の10年間、私たちの話題は冷戦終結後の世界情勢にほぼ終始した。 ソビエト帝国がかくもあっけなく崩壊することなど、誰一人として予期していなかった。 東欧が同じように早急に立憲民主主義に回帰することも、モスクワが長年支援し続けた革命運動が一気にしぼんでしまうことも。 予期せぬ事態に直面した私たちは、普段とかけ離れた大きな思考に踏み入った。 これは「歴史の終わり」なのか。 そして「左翼には何が残ったのか」と。 しかし時が経つにつれて、私たちはまた小さな思考に戻っていった。 ヨーロッパの関心は無定形な欧州連合の建設へと移った。 アメリカはイスラム政治勢力の伸張に目を転じ、アラブの民主化という見果てぬ夢を追いかけた。 そして世界は、万国共通の関心事として一にも二にも経済動向に関心を向けるようになった。これら以外にも理由はあったのだが、とにかく私たちは冷戦のことなど完全に忘れ去った。 そして、それはとても喜ばしいことであるように思えていた。

実は、そうではなかった。 冷戦の終結について、特に冷戦終結後の知的な空白状態について、私たちはおよそ考えることをしていなかったのである。 冷戦が何かをもたらしていたとすれば、それは人々の思考に焦点を与えたことである。 起源をたどれば二世紀前までさかのぼれる二つのイデオロギーが、対極的な政治的現実像を明確にもたらしていた。 その二つのイデオロギーが消えたことで、世界の姿ははるかに見通しやすくなるはずだった。 しかし、現実は正反対の様相を呈している。 第二次世界大戦以後、さらにおそらくはロシア革命以後、西洋の政治思想がこれほど浅薄になったことはなかった。 私たちは今、自分の国でも他の国々でも社会に不吉な変化が起こっていることを感じている。たとえ他国であろうと、その命運は自分たちの社会にも大きく関わってくる。 それでいながら私たちは、そうした今の世界のありようを捉えることのできる概念、さらには言葉すら十分に持ち合わせていない。 言葉と物事とのつながりが、ぷっつりと切れてしまったのである。イデオロギー対立の終焉によって霧が晴れるどころか、逆に霧は濃くなり、私たちは眼前にあるものを読み取れなくなってしまった。 つまり、読み解けない時代に入っていたのである。

左翼の物語、右翼の物語

イデオロギーとは何なのか、あるいは何であったのか。 辞書には、人々の政治的行動の動機づけとなる思想・信条の「体系」と書かれている。しかし、この隠喩は的を射ていない。 思想や信条は、政治的行動に限らず現実のあらゆる行動に関係する。イデオロギーには別の作用がある。 それは、魅惑的な現実像を示して私たちを捉え続けることである。 視覚的な隠喩にならえば、イデオロギーは混沌とした視界に焦点を与えて物事の関係性を浮かび上がらせる。 フランス革命から生まれた政治的イデオロギーは特に強力だった。 それというのも、「現在」は理解可能な「過去」から生まれ、やはり理解可能な「未来」へ向かって動いているという動画像を示したからである。 ヨーロッパで二つの壮大な物語が人々を捉えようと対峙し、それが世界中に広がっていった。進歩的な物語は自由解放の革命へ、終末論的な物語は自然秩序の回復を結末としていた。

ヨーロッパの左翼のイデオロギー物語は、『縛られたプロメテウス』〔ギリシア悲劇、アイスキュロス作。 人間に火を与えたプロメテウスがゼウスの怒りに触れ、巨岩に縛り付けられる〕とイエス・キリストの生涯を掛け合わせたようなもので、人間は神と同等であるが、宗教、階級、財産、誤った意識によって歴史という巨岩に縛り付けられているとした。その状態での千年紀の後、1789年に顕現の奇跡が起こり、自由と平等の精神が肉体を得た。 問題は、その後に贖いが続かなかったことである。 イエス・キリストの再臨が遅れ続けていることを信徒が神学的に説明しなければならなかったのと同じように、19世紀と20世紀の左翼は歴史への失望を革命によって弁明しようとした。その教えでは、フランス革命は恐怖政治とナポレオンの専制に降臨したものだったが、その後のヨーロッパの1848年革命に道を開いたものでもあった。その革命の成果は短命に終わったものの、パリコミューンを触発する結果につながった。 パリコミューンそのものは二カ月余りで崩壊したが、1917年の10月革命の先例となった。 その後はロシアの社会主義革命とスターリンの恐怖政治が続く結果となったが、第二次世界大戦を経て、革命の巡礼は中国や第三世界に広がり、資本主義、帝国主義との闘争を世界化させた。 しかし、その後、カンボジアで大虐殺が起こるに至って音楽は鳴り止んだ。

これに対し、ヨーロッパの反革命右翼は、一九世紀にかなりの政治的勢力をもっていたものの、左翼のように輝かしい物語を示すことができなかった。抑圧下での反動として作り上げられた右翼の物語は曖昧で、訴求力を欠いていた。 しかし、危機に際会すると説得力が強まった。 その右翼の物語は、ゴーレム伝説と『ヨハネの黙示録』を掛け合わせたようなものだった。さまざまなゴーレム伝説のなかで最も広く知られているのは、ラビ(ユダヤ教の律法学者)が泥人形の口に「神」と書いた紙片を入れると泥人形が動きだし、ラビが紙片を取り出すまでゲットー(ユダヤ人強制居住区)の中を暴れ回って人々を恐怖に陥れたというものである。ゴーレムを民衆、紙片をヴォルテールとルソーの書、ゲットーの破壊を恐怖時代として考えれば、反動右翼の思想を理解することができる。

伝説の中ではラビがゴーレムを抑える。しかし反動の力は、科学と経済と技術の力も加わっていた一九世紀の革命の力を抑えられなかった。未開の土地にも鉄道網が張り巡らされ、都市が村々や田園に取って代わっていった。 農地が工場に変わり、宗教学校が世俗学校に取って代わられた。公爵や伯爵に代わって髭面の政治家たちが跋扈し、農民は酷使される労働者の群れとなっていった。 一九世紀が進んでいくとともに、甘美と光明の時代の復活を夢見たロマンチックな右翼は、「艱難時代」〔キリスト教の考えで、終末の兆しとされる天変地異が地上を襲う時代〕の中にあることを悟り、終末論的な右翼へと変わっていった。 そして、ロシア革命が予想外の成功を収めると、小さなセクトに過ぎなかったマルクス主義が世界的な力を得て反キリスト教の顔を世界に知らしめた。 かくして最終決戦が始まり、そこにナショナリストという救い主たちが飛び込んだ。 その彼らは、「鉄の杖をもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの 酒ぶねを踏む」者たちだった(引用は新約聖書「ヨハネの黙示録」19: 15)。これがファシズムの思想である。


マーク・リラ Mark Lilla(コロンビア大学人文学教授)

1956年生まれ。
専門は政治学、人文学。 ミシガン大学卒。 ハーバード大学で博士号取得(行政学)。 ニューヨーク大学教授、シカゴ大学教授などを経て現職。著書にThe Stillborn God(Alfred A. Knopf, 邦訳『神と国家の政治哲学』、NTT出版)、The Reckless Mind: Intellectualsin Politics(New York Review of Books, 邦訳『シュラクサイの誘惑』、日本経済評論社)など。

 

1989年に起きたことは何だったのか

ピエール・グロセール

(パリ政治学院アグレジェ教授)

1989年は、歴史に残る強烈な映像が数多く残った年である。鮮明に目に焼き付けられた映像として、天安門広場で戦車の前に立ち塞がる若者、東欧各地の西ドイツ大使館に殺到する東ドイツの市民、これらの市民に語りかけるためにプラハを訪問した西ドイツのゲンシャー外相、ベルリンの壁の開放と崩壊、ルーマニアの独裁者であるチャウシェスクとその夫人の処刑、マルタ島から程近い地中海の船上で行われたブッシュとゴルバチョフの「船酔いサミット」などを挙げることが可能である。 ゴルバチョフによって行われた一連の改革は、東欧に変革をもたらし(多くの場合、平和裏に)、その東欧で生じた変革が今度はソ連に波及し、結局その消滅にまで突き進ませた 。 歴史が恐るべきスピードで進行していくのを味わうような感覚であった。 なぜならば、東欧の共産主義政権の崩壊に至るまでの過程がどんどんと短くなっていったからだ。ポーランドは数年、ハンガリーは数カ月、ドイツ民主共和国(訳者註ー東ドイツ)は数週間、チェコスロバキアは数日、そしてルーマニアに至っては

数時間しかかからなかったのである。 不測の事態が起きたわけであり、すべての専門家と指導者が出し抜かれた。この想像を超える出来事は、思い返すと不可避の出来事でもあったことが分かる。 だからこそ、1989年の出来事を見据え、解釈することは興味の尽きない作業であり、考えさせるものなのだ 。 とはいえ、時が進むとともに、提起される問題はより洗練されたものとなる。 当然のことながら、1989年の出来事はあらかじめ起こると決まっていたわけではない。ヨーロッパにおける共産主義政権の崩壊と冷戦の終焉に焦点が集中していたことで、1989年が内包していた他の「転換点」や重要な出来事が覆い隠されていたのである。

不意を突いた出来事

政治学、そして人文・社会科学全般の目的は説明することだ。それゆえ、冷戦が終焉を迎えた際、まったく予測不能の出来事がなぜ立て続けに起こり、それがなぜ不可避とまで言われるようになったのか、研究者は早い段階で説明することを求められた。 不思議なことに、多くの研究者が一連の出来事の原因を偶発性に求めた。最近の歴史研究の多くは、政治指導者(特に米ソ)の素早い対応を強調している。あるいは、ベルリンの壁の崩壊が時宜にかなっていたことなど運の良さを強調した。 さらに、1989年から1990年にかけての特殊な事情も考慮に入れなければならない。 ゴルバチョフは、とりわけ内政面でありとあらゆる困難を抱え、そのことがドイツ再統一に向けたプロセスを加速させた 。 日ソ間で平和条約が締結されず、北方領土問題も解決されなかったにもかかわらず、ドイツ問題が解決された理由を解く鍵がこのタイミングの問題にある。 ゴルバチョフは、自身の権力基盤があまりにも弱体化したため、「放棄する国益」を外交カードとして切る際、国民からの批判をより一層気にしながら政治を行わなければならなかったのだ 。

以上のような歴史的事象をめぐって問題提起が洗練されていく動きは、第一次世界大戦の起源史についても見られる。 とりわけ、開戦100周年を機に公表された1914年を対象にした最も優れた研究にこうしたことが言える。 これらの研究は、進歩主義・発展主義的な「ホイッグ」史観、決定論的なマルクス主義史観、そして「深層の諸力」を唱えるフランス国際関係史学派の類の歴史とは距離を置いたものといえそうである。 しかし、1989年にヨーロッパで起きた出来事は「幸福に満ちていた」こともあり、さらには一九一四年を契機に国際政治の表層に出た異例の出来事(世界大戦、「褐色」 訳者註ーナチズム と「赤色」の全体主義、大量虐殺と集団追放、冷戦)に終止符を打ったようにすら見えたため、75年前に世界を戦争に引きずり込んだ一群の指導者とは異なり、「良い政治指導者」(レーガンとブッシュ、ゴルバチョフとシュワルナゼ、コールとゲンシャー、あるいはヨハネ・パウロ二世)に関しては称賛の的となったのである。 ガヴリロ・プリンツィプが誤った導火線に火を灯した一方で、レフ・ワレサは正しい導火線に火を付けた。1914年も、1989年も、一連の出来事はバルカン半島で始まった。 ただ、1914年の場合は、それが否定的な連鎖をもたらした一方で(開戦の契機となるサラエボでのフランツ・フェルディナントの暗殺)、1989年は希望に満ちたものとしてとらえられた(ルーマニアでハンガリー人が差別されていたことに伴い、ハンガリー政府は国連で締結された難民の地位に関する1951の協定に調印することになった。 それが鉄のカーテンの開放につながり、東ドイツ市民の越境的移動を助けることとなった。 そして難民がもたらした危機がベルリンの壁の崩壊につながったのである。 こうした経緯のゆえに、一九八九年のドイツ人とドイツ連邦共和国(訳者註ー西ドイツ)の指導者に注目が集まった。 1914年以降、おおかたドイツに責任があるとされてきたヨーロッパの悲劇の歴史に終止符が打たれるかのように見えた。 その一方で、オーストリアも決定的に重要な役割を担ったにもかかわらず、否定的な働き(1914年)、肯定的な働き(1989年)の双方を無視され続けてきた 。 1989年にブッシュとゴルバチョフの両首脳が顔を突き合わせた「マルタ会談」は、ヤルタ会談の対極に位置づけられる出来事だ。ブッシュにとっては、ゴルバチョフが武力を行使せずにヨーロッパでの出来事を見守 るかどうかを見極める機会であった 。 というのも、1945年2月、スターリンは「解放されたヨーロッパに関する宣言」に署名したものの、それを遵守することは一度たりともなかったからである。


ピエール・グロセール Pierre Grosser(パリ政治学院アグレジェ教授)

1963年生まれ。
専門は国際関係論、外交政策、インドシナ戦争、冷戦など。 パリ政治学院アグレジェ教授の他に、フランス外務省・外交研究所所長(2001年~)。 著書に、Traiter avec lediable? Les vrais enjeux de la diplomatie auXXIe siècle(Odile Jacob,2013)、1989, l'année où le monde a basculè(Perrin, 2009)などがある。

 

東アジアの共同知としての「王道」思想
人類と自然との契約

王柯

(神戸大学大学院国際文化学研究科教授)

第二次世界大戦以降確立された平和を尊ぶ国際秩序は、いま大きな挑戦に直面している。 テロリズムの脅威は主権国家の国境をいとも簡単に乗り越え、かつて疑問視されていた「文明の衝突」がついに現実味を帯びてきたのではないかと世界各国の人々を彷徨させている。 そのなかで、東アジア世界においてはナショナリズムに煽られ、国家間の政治的対立を背景に民衆間の相互憎悪が暗く長いトンネルのなかで出口の見えないままにある。 疑いなく、世界は多極化しつつある。 しかしこのような多極化世界の多様な対立は、政治的イデオロギーをめぐるものではなく、人類社会の究極的な価値観をめぐる対立であるというように強調され、それを正当化している様相すら呈している。 これはかつての冷戦期の東西対立と異なるように見えるが、このような多極化世界の多様な対立を誘発した諸要素のなかに冷戦時代と共通する複数の共通項があることも否定できない。 そのひとつは、「力」を通じて民主主義に挑戦し、民主主義の制度を導入した国々と対決する姿勢が鮮明に打ち出されたことである。 なぜこのような構図が現れたのか、そして東アジア世界においてはこのような問題にどう対処すべきか、これはいまのうちに考えなければならないことである。

「人類と自然との契約」という東アジア的な思想

民主主義は個人の行動や価値観を直接支配するのではなく、人々の価値観を尊重した上で、個々人の自由な意志に基づいた合意を根拠に国家を建設し、運営する思想である。 こうした民主主義の思想には、言うまでもなく、人類にとって普遍的な価値が含まれている。 民主主義が制度上において欠落している国または共同体では、政策の決定と指導者の選出は透明性を欠き、平等と公平が実現できないどころか、基本的人権さえ保証されない。 しかし注目すべきは、民主主義制度の確立している国の民主主義を享受してきた人々のなかから、みずからそれを放棄するどころか、民主主義を敵視するテロリズムに惚れ込み、命を惜しまずに身を投じる人も現れている。 このような現象は、民主主義は普遍的な価値を持ちながらも、そのメカニズムには最終的に自己否定につながるというジレンマが内包されていることを示すものである。

民主主義制度のもとで人々の価値観が尊重されるのは、人間は基本的人権を有するという考え方から来たものである。 周知の通り、基本的人権の思想は自然権に基づく概念であり、つまり、人類の普遍的価値である自由と平等を中心とする基本的人権は政府ができる以前の段階より人間が生まれながらに持つ不可譲の権利である。 ただし、基本的人権の由来については往々にして神が個々の人間に付与したものと解釈され、言い換えれば、民主主義は神の存在を前提としていると見られている。そこで「個人と神との契約」という考えのもとで、どの人も自分が(神との契約によって)正しいと判断する価値観に基づいて行動できるという思想が生まれる。 しかしここから善か悪かの判断は個々人の手に委ねられるだけではなく、価値観の多様化およびそれにともなう文化的、社会的、経済的多様化が、様々な利益をめぐり対立する社会的グループならびに周辺的存在を多数作り出すという問題も発生する。 つまり、民主主義は、多様性に対する社会の許容範囲を広げた一方、他方で不平不満を持つ人またはグループを生み出したばかりではなく、彼らに自分が納得できる価値観に基づいて行動する正当性さえ同時に付与したのである。 一部の欧米の民主主義国家の市民が無辜の市民をターゲットとする「ジハード」(聖戦)に走り、宗教の名のもとにテロリズムを正当化する背景には、こうした思想的軌跡が見えてくる。 「個人と神との契約」という考えは、キリスト教世界独特の思想ではなかったかもしれない。 しかしそれを民主主義にまで発展させたキリスト教世界においても、民主主義が主権国家の基本単位となり、そのため、多様な価値観についての承認は、「世界公民」ではなく、ひとつの主権国家の構成員としての政治家と市民に委ねられている。 このような民主主義の政治的仕組みにおいては、実に「個人と神との契約」のもとで生まれた価値観の是非または善悪を判断する照準は国民各自が定めることになる。 民主主義制度が確立されているか否かにかかわらず、ナショナリズムがどの国においても同様に強烈であることは、まさにその好例である。 民主主義が確立した国々のマスコミも政治家と同じ立場に置かれて、その生命力を決める者は自国民である。 そのため、西洋社会における「個人と神との契約」という発想は、事実上個人主義、 利己主義の下地にもなっており、この発想に基づいて成立した民主主義という枠組みのなかで様々な価値観が尊重されるということは、あくまで一種の言説に過ぎなかったと言える。

20世紀以降の東アジア世界もナショナリズムの情緒に包まれてきた。 しかしそれに先立ち、主権国家の利益を乗り越えるような動きが一九世紀末期からすでにあったことも事実で、「アジア主義」はすなわちその一例である。 このような主権国家の構成員ではなく、東アジアの人々が共通、共有できるような価値を追求する動きが生まれるのは、西洋的な個人と神との契約という発想と異 なり、東アジア世界には「人類と自然との契約」とも言うべき思想に基づいて価値観の是非と善悪を判断する文化が存在しているためであろう。 この「人類と自然との契約」の思想はあらゆる領域に生きているが、政治と文化が高度に一致するという特徴を持っている東アジア世界では、とくに「人類」と「自然」との義務と権利に関する意識のなかで鮮明に見られる。 たとえば、「天無私覆、地無私載、日月無私照」(「天照」の思想、『礼記・孔子閑居』) という考え、または「帝」という漢字、そこに表されている権威の誕生と権力の正統性は、まさに「人類」が「自然」およびその決められた法則(「道」)に絶対に逆らわず、それに従えば庇護してもらえるという「契約」に基づくものである。 この思想をもっとも体系的に具現化したのは「王道」の思想である。 「自然」と対になっている「人類」とはあらゆる人間のことであり、「人類」全体を対象としている「王道」の思想には主権国家の意識がなく、そして「利他主義」の思想も当然セットされている。たしかに、この「王道」思想は戦時中に日本のアジア侵略に利用されていた。 しかしそのためでもあるが、われわれはその利用価値はいったいどこにあったのかを思想の深層から考察するべきであろう。 そして、東アジア世界という視野をもってもっと早い時期から「王道」による秩序を唱導したのは孫文であるということも知っておかなければならない。


王柯 Ke Wang(神戸大学大学院国際文化学研究科教授)

1956年生まれ。
中国中央民族学院(現中国中央民族大学)卒業、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。 博士(学術)。東京大学教養学部外国人客員研究員などを経て現職。 専門は近現代政治思想史。著書に『東トルキスタン共和国研究』(東京大学出版会、サントリー学芸賞)、『多民族国家中国』(岩波書店)、『20世紀中国の国家建設と「民族」』(東京大学出版会)など。

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