SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2006年5月11日

#12 栗原 徹 『ここで点が欲しいという時にトライできたら最高』- 1

◆苦しんだ分だけ良いことがある

—— 今年でサントリー6年目、過去5年を振り返ってみてください

常にチームと共に、という感じです。チームがいい時は自分もいいし、チームの成績が悪い時は、自分も良くないですね。最初の年は全勝、2年目も最後の日本選手権決勝で敗れるまで無敗でした。それから3年間、チームも自分も良くなかった。

原因はいろいろなところにあると思いますが、僕が感じたところは、大久保直弥さんも小野澤(宏時)さんも、どんな状況にあっても素晴らしい力を発揮するのに比べて、僕にはそこまでの力がないということです。

これまで良いパフォーマンスができたのも、日本代表に入れたのも、チームメートのお陰だと思うので、チームメートにはとても感謝していますし、そのチームメートが良いプレーができるよう、これから貢献していきたいと思います。もちろんその中で自分も活躍したいですけれど。

—— 具体的にはどういうプレーを目指してますか?

僕自身は「外」のプレーヤーです。サッカーでいえば、いいパスを受けてフリーになった状態で、シュートを蹴るという確率が高い役割です。それが相手も強くなって、そういうチャンスがなかなか作れなくなってきていると思います。でも点を取るストライカーはどんな場面でも点を取ります。自分にベクトルを向けて、自分自身がしたこと、してきたプレーを正面から見つめ直して、1から頑張りたいと思います。

—— そういう意味では新体制、新生サンゴアスになったこのタイミングがマッチしていますね

永友監督(前監督)がどう、清宮監督がどう、というのは関係ありませんが、チームが新しくなりキャプテンも若くなって、心機一転しやすい環境ですね。

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—— 順調に来たラグビー人生がここ3年、壁に突き当たってるという感じでしたか?

チームも個人も結果の出ない3年間でしたが、僕自身の中では、これは代表に入ったころから言っていたんですが、何で自分が選ばれるのだろう?という思いもあって、本当の奥のところでは、代表であろうがなかろうが、同じところを歩いているつもりだったにもかかわらず、実際は本当の自分とは違うところにいたような気もします。

代表になっても、日本一のメンバーであっても、いつも自分はここを歩いているというつもりでしたが、周りからいろいろ言われたりして、少し浮ついたというか、この辺(*と言って手を少し上に上げる)を歩いている感じが、半分半分ぐらいありました。うまく言えないんですけれど。

—— この3年間の成長は?足踏み状態ですか?

それぞれの年ごとにテーマをもって取り組んできていて、それなりに感触はありました。何も考えずに良い結果が出ていた時は楽でしたが、いまこういう状態にどっぷりとつかって、苦しんだ分だけ良いことあるんだぞ、と自分に言っています。人には言いません(笑)。

◆全試合フル出場とトップリーグ制覇

—— そのテーマを教えて下さい

簡単に言うと、数字としては、全試合フル出場を目指しながら、チームに貢献できるようにトライしたい。去年は「アシスト」というテーマでしたが、シュートを打とうと思ったところにディフェンダーが来たのでやめるのではなく、どの選手もそこにスペースを見つけて、トライしないといけない行けるところまで行って、トライをいっぱいしたい、それがチームのためになると思いました。

今年の最大の目標はトップリーグ制覇です。とくに接戦の試合で、チームの中で試合に出ている選手、出ていない選手に関係なく、関係者も含めてチーム全員がここで点が欲しいと思った時に、トライできたら最高です。

全試合出場というテーマは今年も変わりません。一昨年はもう少し細かくて「相手の抜き方」とか課題でもあった「ディフェンス」とか、自分が苦手な部分に注目してやってみました。いまは苦手な部分は最低限チームに迷惑がかからない程度にがんばる、という感じで、これぐらいの歳になると(*8月で28歳)わがままが出てきますね。

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—— いま怪我(右肩)されていますが、ここのところ顔色が明るくなってきた感じがします

怪我していてもグラウンドを走るメニューをやっていますが、これまではみんなが練習しているグラウンドではなくて、外に走りにいってました。それをいまは、グラウンドの中の外周を走るように変えたんです。

僕はラグビーの何が好きかっていうと、ラグビー自体をやっているのが好きなんです。ボールを使ってプレーするのが好きで、怪我していて自分でできなくても、人がやっているのを見ているのも好きですね。

それで走りながら、新しいことをやっているな、こういうことをやってるんだ、と見ることができるようになって、変わったのかもしれません。チームスポーツを何年もやってきたので、チームメートといるのが楽しいんです。

◆出られなかった試合で気がついた

—— ラグビーを始めたのは何時ですか?

中学(清真学園)1年、12歳の時からです。中学にはサッカー部がなかったんです。鹿島アントラーズがある土地なのに、いまもサッカー部がありません。4つ年下の弟が中学時代にサッカー部を旗上げたりしたんですが、強い学校がいっぱいある中で創ったばかりのサッカー部は当然弱くて、反対にラグビーは強かったので、弱いサッカー部に入った部員のほとんどが強いラグビー部に移籍してしまって、なくなってしまいました。

グラウンドにラグビーポールは立っているけれど、サッカーゴールはないという学校でした。創設者(岩上二郎/元茨城県知事)がラグビーが好きで、球技はラグビー一本に絞ろうということで、今も監督をやっている渡辺(聡)監督が呼ばれて、一からラグビー部を創ったそうです。僕が17期生で、いま28期生です。

僕らの学年のラグビー部員は15人いて、全体で30数人いましたが、大阪なんかの強豪校には3学年で100人以上というところもありました。それほど大きな部ではなかったと思いますが、東日本大会で準優勝しました。高校もそのまま同じ清真学園でしたが、花園での全国大会に3年のときに出て、ベスト8までいきました。清真学園高校として2回目の出場で、初出場は僕が中3のときでした。花園まで応援に行ったんですが、1回戦で負けちゃった。あーぁって思って、自分たちが行ったら絶対勝とうと思いました。

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—— ラグビーをやってきていちばん印象に残るシーンは?

花園に出たとき僕は1回戦からやりたかったんですが、シードされて2回戦からでした。大分舞鶴とやって接戦でしたが勝って、次の試合も勝って、3試合目で負けてベスト8でした。この最後の試合には、僕は前の試合で肩を骨折してしまって、出ていません。

この出られなかった試合前のミーティングが、僕はいちばん幸せでした。肩を骨折したときに頭も打っていたのかも知れないんですが、この試合に自分としては当然出るつもりでいたんです。試合出場のメンバーが発表されるときには、超ドキドキしていたくらいですから。それでいつもの背番号に違う人の名前が呼ばれて、初めて気がついたんです。骨折してるのだから試合には出られないって。

そんな僕をチームメートは暖かく見守ってくれました。試合はスタンドから観戦しましたが、それまでキャプテンでも何でもなかったけれど、チームを外側というかウイングというポジションから、鼓舞しているんだという自負があったんです。そういう過信みたいなものがあったんですが、自分がいなくてもミーティングが行なわれ、代わりのメンバーがしっかりとやっているし、そうやって気を張っていた分、自分がいなくてもみんなががんばってくれればいいんだと気がついて、それがとても幸せだったんです。

◆中学、高校、大学とずっと一緒だった選手がいる

負けた試合の相手は東福岡で、いまチームメートの田原耕太郎が大活躍して、50何対10いくつで負けました。スタンドでまた、あーぁと思いましたが、耕太郎は高校2年生から高校日本代表に選ばれていたほどのすごい選手でした。高校の3年生と2年生の差はかなりあるので、それでも選ばれるほどの天才でした。

その後の大学(慶應義塾大学)3年生のときの日本一もありますが、ほとんど自分たちの代が試合に出ていたので、4年のときの下馬評はとても高かったんです。それが春の練習試合でボロ負けして、そこからチームを作っていきましたがベスト4止まりでした。

中学、高校、大学と、ずっと一緒だった選手がいます。いま慶應大学のコーチをやっている和田(康二)は、僕の横に常にいて、キャプテン・オブ・キャプテンというキャラクターでした。僕は彼の真面目すぎるキャラを茶化していました。あまり真面目すぎると浮いちゃうこともあるでしょう。だから浮かないように茶化した10年間(笑)。一緒にサントリーに誘われたんですが、ラグビーでなく仕事を選んで、ゴールドマンサックスに入りました。彼は僕と正反対で、とっても頭がいいんですよ。

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—— 彼とはその後もよく会ってるんですか?

はい、この前も会って、監督が清宮さんになって、どういうふうに教えているの?なんて聞いてきました。やっぱり早稲田と慶應だったりするので、直接は聞きづらくて僕を経由して聞いてるんだと思いますが、彼は純粋に清宮さんのことを尊敬しています。もし将来、康ニが慶應の監督になって、僕が引退したら協力できたらいいなぁって思います。

(インタビュー&構成 針谷和昌)

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